私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。
信西(しんぜい)が自害した翌日、平治元年(1160年)12月14日に内裏で政権を握った藤原信頼(ふじわらののぶより)は臨時除目を行いました。
この時、内裏には二条天皇(にじょうてんのう)と後白河上皇(ごしらかわじょうこう)が居て信頼の手中にいたんだよね
この除目で源義朝(みなもとのよしとも)は播磨守、義朝の嫡子、頼朝(よりとも)は右兵衛権佐になりました。
源頼朝
この時の頼朝さんが後に佐殿(すけどの)って呼ばれたのは、右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)の佐だったんだね
信頼は義朝の武力を背景に独断専行の政を行なったのです。
こんな信頼を見た二条天皇派は密かに離反の機会を窺っていたのです。
そんな中、熊野詣に出かけていた平清盛(たいらのきよもり)が京へ帰ってきました。
平清盛
この清盛一行の帰路を東国から馳せ参じた義朝の長男、源義平(みなもとのよしひら)が襲撃し討ち取ることを主張しました。
源義平
義平さんは悪源太と呼ばれ、義朝さんの代わりに義朝さんの弟の義賢(よしかた)さんを東国で討ったんだよ
信頼は清盛の娘と婚姻関係であり、清盛も自らの味方になると見込んでいて、義平の主張を退けたのです。
信西と親しかった貴族らは信頼の専行を苦々しく見て密かに清盛と接触。清盛は協力することに同意したのです。
そして二条天皇派にも接触し、協力することになったのです。
二条天皇派とすれば打倒信西を目的に信頼と協力したが、その信西が亡くなったら協力する意味はなくなったのです。
12月25日、清盛は信頼に名簿を提出し恭順の意を示したのです。これに信頼は喜びました。
翌26日の午前2時、二条天皇は側近の手引きで密かに内裏を出て清盛邸である六波羅に移動したのです。
二条天皇が内裏を出る前には後白河上皇も内裏を出て任和寺に脱出していました。
26日の早朝、二条天皇と後白河上皇が内裏にいないことを知った信頼らは動揺しました。
天皇も上皇も清盛さん方に渡り、信頼さんらは官軍では無くなったんだよな
義朝は信頼に向かって
「日本第一の不覚人!」
と罵倒したのです。
つづく










