「荒城の月」という曲がありますね。
土井晩翠が作詞して、
それに滝廉太郎が曲を書いたというアレです。
しみじみとしたいい曲ですね。
しかし、この曲にはちょっとした謎があるのです。
まず、これはどこかの城を詠っているのか?
会津の鶴ヶ城へ行ったとき、その歌碑があった。
ということは、「荒城」とは鶴ヶ城のこと?
ところが、実はそんな碑があちこちにあるらしい。
大分県竹田の岡城とか仙台の青葉城とか、
他にも・・・。
それぞれにもっともらしき根拠があって、
どこも「おらが本家」と主張。
土井晩翠がその城のモデルを明らかにしてなかった
ことがその背景にあった。
だが、いよいよその論争に決着がつけられるときが来た。
晩翠は、会津高等女学校で公演したことがあった。
そのとき、謎を明かした。
その曲は鶴ヶ城を詠ったのだと。
彼は高校の修学旅行で鶴ヶ城を訪ねたことがあって、
そのとき見た城の様子をイメージしたというわけだ。
城は戊辰戦争で攻撃されて荒れ果ててしまったが、
そのままになっていたらしい。
(荒れ果てた鶴ヶ城)
その話を聞いて、鶴ヶ城に「荒城の月」の歌碑を作ろう
という話が持ち上がった。
その除幕式には晩翠夫妻を招いたそうだ。
そこまでやったら、もう鶴ヶ城で決まりですよね。
ところがこれは、まだ謎の半分が解けただけなのです。
「荒城の月」の「月」も何か背景があるのか?
はい、詮索好きな人はそんなことも考えるかも知れない。
実際に、そんな材料があるのです。
その材料は『八重の桜』にも登場。
会津が新政府軍に降伏した夜、
空には月が輝いていた。
それを見て八重はこんな詩を詠んだ。
「明日よりはいづくの誰か眺むらん
馴れし大城(おおき)に残る月影」
それを城の壁に書き残した。
その心情も「荒城の月」のモチーフになったと言われている。
(いまの鶴ヶ城と月)
「荒城の月」の3番の歌詞にはこうある。
いま荒城の 夜半の月
替わらぬ光 誰がためぞ
垣に残るは ただ葛(かずら)
松に歌うは ただ嵐
繋がるものを感じますか?
さても、1つの曲にも色んな背景があるんですね。
小学校の頃、のんきに歌っていた「荒城の月」。
深い味わいのある曲なんですね。