こんにちは。このブログ3つ目の記事は、1つ前のものから1年もの空白期間を経て書くことになりました。かなり長い期間休んでしまい、申し訳ありません。「もう書かないのでは?」と思った方もいるでしょう。この1年、僕にはじっくりと物事を考えて一定量の文章を書き起こす余裕がありませんでした。改めて、再スタートし、今後少しずつ書けていけたらなと思っています。

 

 今回のタイトルに「卒業論文」と書いてあります。最初の自己紹介で、大学の学部時代に歴史学、日本近現代史を専攻していたことを書きました。実は、僕が執筆した卒業論文が、ある歴史系のローカルな研究会の機関誌に掲載されたのです。今回は、僕が大学でどのような研究を行ったのか、卒業論文の紹介をしつつ、あくまでも「趣味として」今後どのような探究をしていきたいのかについて書いていきます。ちなみに、2章立てですのでかなり分量がありますことを最初にお詫びいたします。

 

 

 

1.卒業論文の執筆・掲載までの経過と概要

 ブログの最初の自己紹介記事では、詳細な経歴(出身大学・学部学科等)は書いていませんが、機関誌の中で公開しているので今後はあまり隠す必要がないかなと思っています(出身大学は2つ目の記事にも既に書いてますけどね)。卒業論文が掲載されているのは、「城南郷土史研究会」(京都府南山城地域の歴史に関わる様々な問題の研究や議論等を行う研究会)の機関誌『やましろ』第33号(2019年12月25日発行)です(南山城地域は、概ね京都府の宇治市以南を指すと考えてよいです)。掲載されている卒業論文の題目が「大正~昭和初期における地域メディアの役割とその変化―南山城地域の『山城』を題材に―」となります。これは、2018年1月(2年前)に京都府立大学文学部歴史学科へ提出し認定された卒業論文であり、学科のホームページの「卒業論文一覧」にも掲載されています。実際の論文の内容や執筆過程について、京都府内の方は、京都府立図書館や京都府立京都学・歴彩館などで閲覧できるのでそちらで閲覧していただければと思いますが、府外の方向けに、どのような経過で論文題目を決定したのか、そしてどのような問題意識をもって執筆していたのか、大まかに紹介します。

 

 

 出発点は、全国の中でも京都における「政治的特殊性」への関心から、「大正~戦前期の社会運動について研究できたらな」という漠然とした思いからでした。そのテーマで研究するための史料を苦労しつつ探していたところ、偶然にも京都府南部のローカル新聞社・洛南タイムス社(現在の洛タイ新報社)HP内で、山本宣治の研究者である本庄豊氏による連載「南山城の光芒 新聞『山城』の25年」(以下、「光芒」とする)を発見したのです。「これだ!」と思い、すぐに洛南タイムス社へ問い合わせました。連載における分析対象であり大正~昭和初期に発行されていた南山城地域のローカル新聞でもある、『山城』の全号を所蔵されていた古川章氏にお会いして、コピーさせていただくことができました。ちなみにその『山城』全号は本当に奇跡的に残っていたもので、本当に貴重な史料なのです(『山城』発見秘話は、古川章氏が『やましろ』第26号に書かれています)。そんな「運命」の出合いがあり、様々な苦労をしながらなんとか卒業論文として完成させました。

 

 そんな卒業論文の主題は、題目にもあるように、地域メディアである『山城』が地域内でどのような役割を果たしたのか、4つの時期区分をして役割の変化を分析することにありました。分析する上での重要なポイントとして論文内で注目しているのが、①『山城』を地域メディアとして存在し続けさせた構造と②時代変化への「適応」という点です。②の時代変化ということでいうと、4つの時期区分のうち、前半2つは大正デモクラシー期から第1回普通選挙(1928年2月)が行われる時期に相当し、後半2つは大日本帝国が十五年戦争を進める時期に当たります。そうした世界と日本の大きな変化の中で『山城』が南山城地域をどのように見つめてきたのか、農村社会の変化がどのように紙面に現れているのか、そのことが顕著にあらわれている記事を取り上げながら論を展開しました。その際、①として、『山城』がどのような人々によって支えられている商業紙だったのか、『山城』がどういう立場で紙面を展開していたのかに注目することで、『山城』の紙面変化の背景に目を向けることが可能になったのです。

 

 

 以上のことは論の展開の前提として論文の1章で言及しているのですが、僕の心の中にはいわゆる「裏テーマ」なる問題意識がいくつかありました。

 

 1つ目は「農村(無産)青年」の生活や思想、行動に光を当てることです。『山城』の主宰者である新井清太郎氏は、1916年創刊当時、青年団のリーダー的立場だったことから、『山城』初期の紙面には「青年団の活動はこうあるべき」という記事が多いのです。都市部の発展に伴う農村の衰退への懸念も強く紙面に出ており、「農村社会発展のために青年はこうするべき」という記事も多くあります。時代が下り20年代にさしかかると、京都市内からの社会主義思想流入の影響も受けます。それを受けて農村青年たちが階級を自覚し、要求実現のために諸団体を結成して研究・議論をし、小作争議や選挙活動にも取り組む様子が『山城』から見えます。無産政党である労働農民党の山本宣治が代議士となる上でもこうした農村青年の力があったことも見えてきました。『山城』の紙面に個人名として出てくる青年は数十人いますが、記載されていない青年も含めて、1人ひとりが様々な団体に所属しながら地域に根ざして自覚的に社会と関わり、その積み重ねの中で無産青年を代表する山本宣治を帝国議会に送ったという「変化」が起きたことは注目すべき点だと思っています。

 

 2つ目は、「地域メディア」の果たす役割を批判的に考察するということです。卒業論文へ本格的に取り組み始めた時期は就職活動を始めた時期と重なっており、当時は新聞記者を目指していました(現在の職業とは異なりますが)。僕は特に地方紙記者への志向が強かったのですが、それは『山城』研究と無関係だったわけではありません。広島にいたときには中国新聞に慣れ親しんでいた自分の実感でもありますが、多くの県での新聞購読シェア率のトップは、その地域に根づいている地方紙なのです。その要因はいろいろあるでしょう。各県内の記者数で言うと、その県を軸に置いている新聞社が桁違いに多く、地域の情報が全国紙に比べれば段違いに多いのは言うまでもありません。新聞広告も県内の企業が多く、地域における民主主義を支えるメディアとして地域社会でネットワークが構築されているからというのもあるでしょう。それに加えて、各県内の主要な地域に多くの支局を置き、1人ひとりの記者が地域に根ざして密に住民の方々と結びついて信頼関係を築くことが容易であることも重要だと思っています。見逃されやすいような小さき声も拾いながら地域社会を見つめ、ときには問題提起もしていく姿勢をもつ地方紙だからこそ多くの県で各県民に支持されているのでしょう。実際に地方紙の記者さんの話を聞くことを通して、各地域に住む人々の声に耳を傾け、実際にともに生きていく中でのやりがいと意義を聞く中で地方紙の記者になりたいという思いを強くしました。全国紙も含めどの新聞社も、根底にはメディアが「民主主義の担い手」として「権力監視」というジャーナリズム精神を発揮していくことが常に求められているという点も僕が新聞記者を志望する中で大事にしたい価値観でもありました(現在はそうしたメディアの役割に対する危機感も覚えているところですが、ここでは触れません)。

 そんなことを就職活動の中で育んできたことを活かし、メディアに対する視点として①どの程度、どのように地域社会と結びついているのか②国家や地域社会における権力とどのような関係を築いているのか③メディアとして地域社会にどのような情報を提供し、受け手である購読者はどう受け止めているのか、といった視点で『山城』を分析する多少の手助けにもなりました。

 

 3つ目は、「総力戦体制」の形成過程についてです。「総力戦体制」という用語そのものは論文内でおそらく一度も使用していないのですが、4つの時期区分のうち後半2つでの考察は、いかにして地域の中で「総力戦体制」が形成されていったのか、その上で地域メディアの『山城』はどのような役割を担ったのか、ということが中心に据えられています。その上で大きなターニングポイントとなるのが1928年の「御大典」(=昭和天皇の即位式)と30年代の「自力更生」運動でした。このことは本庄氏の「光芒」や30年代の農村を対象にした多くの先行研究で言及されていますが、地域メディアも地方における「十五年戦争」の推進力として総力戦体制の一翼を担うほかに生き残る術はほぼ残されていなかったと言えるのです。ここには、僕自身の「なぜこの戦争が止められなかったのか」という、大正デモクラシー運動の「限界」という問題意識とともにある思いも込められています。

 

 

 ここまで、卒業論文の概略も含めた僕の問題意識を書いてきましたが、2018年1月に卒業論文を提出し、口頭試問を受けて論文が認定されて無事に大学卒業が確定したのちに、論文執筆の上で欠かせなかった古川章氏に感謝の気持ちを示すお礼として卒業論文を送りました(「論文読みたい」と言ってくれた親しい友人数人にもコピーを渡しましたが)ところ、思った以上に出来がよかったのか、「南山城の近代地域史研究を進める」研究としての評価もいただき、18年12月に古川章氏の仲介で城南郷土史研究会の方から声をかけていただき、提出した卒業論文の状態から数十カ所の誤字脱字の訂正と若干の加筆をもって『やましろ』第33号への掲載となりました。改めて、僕の卒業論文に関わってくださった方々にこの場をお借りしてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 

 

 

2.卒業論文で残した課題と今後の探究視角について

 こうして様々な縁があって1つの形にはなりましたが、僕の卒業論文には多くの課題が残りました。

 

 1点目は、そもそも論文で述べていることは、『山城』全体のほんの一部分でしかないということです。つまり、『山城』には卒業論文400字×25枚(=20000字)で網羅することが出来ないほどの多様なテーマが扱われているわけで、卒業論文の主題は『山城』の一側面でしかありません。そのため、今後は『山城』の記事を出発点に、近代の社会の様々な事象について深められることがたくさん残っていると考えています。

 

 2点目は、1点目に関わって、南山城地域内で活動する諸団体の実態が論文の中ではほとんど言及していないことです。『山城』紙面には毎号のように「○○村青年団」と言った形で、町村別に支部がある諸団体の活動が多く紹介されています。ただ、いつ会合をし、その議題は何であったのかといった抽象的な事実は出てきますが、『山城』内で深く掘り下げて活動が記述されている団体は決して多くありません。本当に活動実態をよく見ようとするならば、各団体の発行物や活動記録、または各町村の行政文書を用いて研究することが必要になってくるでしょう。しかし、そうした戦前の行政文書が残っていること自体がかなり稀であり、『山城』ですら非常に貴重な史料ですから、限界を感じているところでもあります。しかし、京都府の文書やまとめられている自治体史なども含めて、まだ研究できる余地はあるかもしれないと、諦めないようにしたいと思います。

 

 3点目は、この卒業論文の価値を決定づける上での問題点ですが、端的に言うと「先行研究の分析の甘さ」と「論文の独自性の欠如」です。本論で『山城』分析に多く取られてしまい、冒頭での先行研究が単なる紹介にとどまっていて、先行研究への批判や相違点を明確にできなかったのは力不足だったと感じています。後者については、提出日締め切り数日前に結論を書いている際、時間との勝負の中で悩みつつも探究しきれなかったというのもありますが、先行研究においては1つかなり大きなミスをしていました。それは、この卒業論文を執筆する上で直近の先行研究になりうる文献を挙げていなかったことにあります。それが小林啓治氏の『総力戦体制の正体』(柏書房、2016年)です。著者は僕の指導教員、つまり締め切り前日まで助言を下さっていた先生なのですが、本自体は購入していたにもかかわらず「難しそう」と読まずに卒業論文を完成させてしまっていたのは本当に申し訳ないと言うほかありません。このブログ記事を書くにあたり、年末年始に読んだところ、やはり自分が卒業論文の中で考察していることの多くが既に言及されていたわけで。しかも分析対象が京都府竹野郡木津村(現・京都府京丹後市)であり、同村の行政文書をもとに地域社会の総力戦体制の確立過程を緻密に研究されているので、学生時代に読んでいたら、論の展開も変わっていたかもしれません。また昨年に京都府立京都学・歴彩館が発刊した共同研究会報告書の中にも小林啓治氏の論文が掲載されており、これらからも大いに学びつつ、『山城』で取り上げた先行研究の分野についてもさらに関心を傾ける必要があると痛感しているところです。

 

 

 こうした自分に対する批判も踏まえて、社会人ですがいくつかの学会や研究会に所属し今後も歴史学に向き合う環境があるため、今後「趣味として」気軽に『山城』研究をしつつ、最新の研究も学びながら日本近現代史を中心に見識を広げられるよう励みたいと思うし、それをもっと楽しめるようにしたいと思います。ここまで読んでくれた方々に感謝です。ありがとうございます。

 

Keisuke

 

 

 

【参考文献】

・拙稿「大正~昭和初期における地域メディアの役割とその変化―南山城地域の『山城』を題材に―」『やましろ』第33号、2019年。

・小林啓治『総力戦体制の正体』柏書房、2016年。

・同上「洛西地域の総力戦体制―地域メディアとしての『神足月報』の役割を中心に―」『平成30年度京都府域の文化資源に関する共同研究会報告書(洛西編)』京都府立京都学・歴彩館、2019年。