今日の読書~『新章 神様のカルテ』 | ヒズモのブログ

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夏川草介 著 『新章 神様のカルテ』 (2020年12月)

小学館文庫 定価:(本体900円+税)

 

2019年2月の単行本の文庫化です。「神様のカルテ」「神様のカルテ2」「神様のカルテ3」「神様のカルテ0」に続く5冊目です。テレビ東京系列でスペシャルドラマが始まりました。私は映画「神様のカルテ」(2011年)、「神様のカルテ2」(2014年)櫻井翔宮崎あおいのコンビが大好きでしたが、今回のドラマの福士蒼汰清野菜名もとてもいいなと思いながら観ています。そこで、この「新章 神様のカルテ」が未読であることに気づき、読みました。今回も信州の美しい風景描写と共に、癒されたり、笑ったり、感動したり、命や家族を考えたりと、読み応えのある本でありました。

 

 

小学館の紹介文です。

330万部のヒット作、大学病院編スタート
 栗原一止は、夏目漱石を敬愛する内科医だ。信州・松本平で「24時間、365日対応」を掲げる本庄病院から信濃大学医学部に入局し、早二年が過ぎた。消化器内科医として勤務する傍ら、大学院生としての研究も進めなければならない。そして「引きの栗原」は健在で、患者より医者の数が多いはずの大学病院で相変わらず多忙な日々を送っている。第四内科第三班の実質的な班長を務めている一止は、正義感に燃える研修医たちに共感しながらもいさめ、矛盾だらけの大学病院という組織にもそれなりに順応しているつもりであった。しかし、治療行為も万策尽き、最後のひと時を夫と子供とともに自宅で過ごすことを希望する29才の末期膵癌患者をめぐり、局内の実権を握る准教授と衝突してしまう。
 内科医・栗原一止を待ち受ける、新たな試練!
 シリーズ330万部のベストセラー、大学病院編スタート!
 本編に合わせ、特別編「Birthday」も収録。

 

プロローグの始めの一文、「春の安曇野は、ひときわ美しい土地である。」(P7)で、私は瞬時に「神様のカルテ」の世界に引き込まれ、526ページのエピローグまで、集中して読み終えました。栗原一止の文語体で語る言葉に時々痺れ、細君榛名が一止にかける敬語の優しい言葉に癒されながら。

 

私の心に響いた言葉の一部をご紹介します。

「私こと栗原一止は、信州松本に住む実直にして生真面目の内科医である。真面目というと、なにやら地味で面白みに欠けると思う向きもあるかもしれないが、これは浅薄な論評で、かの明治の文豪夏目漱石もこんな言葉を残している。”真面目とはね。君、真剣勝負の意味だよ”」(P10)

 

”心配ない。小春はただ、食べて寝て、笑ってくれればそれでいい”」(P14)

 

「医療現場というものは、余人が思うよりはるかに不条理に満ちている。心優しい医者が一生懸命に力を尽くしたおかげで患者が元気になっていく、などというメロドラマは完全な幻想であって、個人の努力の有無で結果が変わるほど医療は甘いものではない。」(P107)

 

「医者という存在は、多くの事柄を知っている。むしろ知っているがゆえに、未来に対して必要以上に虚無を見ることがある。膵癌の五年生存率も、化学療法の奏効率も確かに重要なデータだが、あくまでデータであって目の前の患者の出来事ではない。進むべき道が明らかであるのなら、悲壮感にのまれて立ち尽くしているのではなく、まずは足を動かして前へ進むということが、我らの務めということであろう。」(P116)

 

「世の中は難しいことが多い。だがだからといって、君が難しくなっていいわけではない。どんな理由を述べたところで、嘘と卑怯と小細工は恥ずかしいことだ。君の好きな将棋もフェアプレイが基本ではないか。」(P175)

 

必要なのは、コミュニケーション能力ではなく、コミュニケーションをあきらめない能力だ」(P197-198)

 

真面目は大切なことだ。知識や常識はいくらでも教えてやれるが、真面目というのは容易に伝えられるものではない」(P207)

 

「「ママ、治るの?」幼い声が、一息に胸の奥まで飛び込んできた。私は束の間逡巡し、なんとか口を開いていた。「お医者さんは、魔法使いではない。だから、絶対に治すと約束することはできない」理沙ちゃんは真剣な目のままだ。「しかし、治すために全力を尽くす。それだけは約束する」」(P208)

 

「学士殿が軽く眉を上げ、それからうなずく。「重圧ですね。そういう尋常ならざる重さに日々耐えているから、段々と人が大きくなるのです」…(中略)…「”勇気とは重圧の中での気高さである”」静かな学士殿の声に、私は苦笑した。「ヘミングウェイか、よい言葉だ」「その意味では、ドクドルは十分に勇気のある人ですよ」さらりと金言を励ましに変えてくれるところは、さすがに学士殿だ。」(P212-213)

 

人の本性というものは、地位や肩書で示されるものではない。窮地に陥ったときの振る舞いで見えるものである。」(P264)

 

「「血液検査、ひどいことになっているみたいですね」「モニターで見るとなかなか賑やかですよ。普段は白い画面に黒い数字が並んでいるだけの退屈なデータですが、今日は赤い数値と青い数値が入り乱れて、とてもカラフルです」」(P287)

 

「ですから、あなたの膵癌を魔法のように消し去ることはできません。しかし、今の高熱を治すことはできます。奇跡の是非は神様の領分ですが、できることに力を尽くすことは人間の義務だと考えています」(P290)

 

「「だが栗原にもいい部分が二つある」「二つもありますか?」生真面目に問えば、猛牛はにこりともせず、あるさ、と応じる。「患者に優しいこと、看護師に人気があることだ」」(P305)

 

絶望は、生きる力を失わしめる。生きるということはとりもなおさず希望を持つということと同義である。ゆえに私は、「手はない」という言葉の代わりに「サードライン」と告げる」(P322)

 

「「おかえりなさい、イチさん」その一声が胸に届けば、つい先刻まで脳中を埋めていた腹立たしい准教授の顔など吹き飛んで、寛容と謙虚と雅量とが栗原一止に戻ってくる。まことに細君の笑顔は、大輪の花である。」(P340)

 

「義務です。生きることは権利ではない。義務です」」(P371)

 

「「憎まれ口はいくらでも聞きますが、今は諦めてください。あなたの主治医は、患者の意思より、理沙ちゃんとの約束を優先するようなろくでなしということです」」(P397)

 

「わざわざ暦を見る必要はない。信州では、四方を囲む山を見れば、四季がそのまま描かれている。八月が終わり、九月に入る。すると少しだけ透明度を増した空の下、山の緑が不思議な鎮まりを見せてくる。」(P412)

 

私はひとりでいるわけじゃない。主人や理沙がいて、そのために一日でも力を尽くして生きなければいけない。そのことを教えてくれた先生を信じようと決めたんです」(P422)

 

「「ご主人の不安は、なくなるものではない。我々のなすべきことは、不安がなくなるまで漫然と待つことではなく、不安を抱えるご主人に向かって、”それでも大丈夫なのだ”と告げることだ。どれほど不安でも、”我々が全力で支えるから心配するな”と」」(P449)

 

「「禍は福の倚る所、福は禍の伏す所」なにか高僧の読経のごとく、弥勒様がつぶやいた。顧みた私に、弥勒様の穏やかな笑みが応じる。「老子の言葉です。不運のそばに幸運があり、幸運の陰に不運がある。人に与えられた運と不運は平等だと言います。日々の苦労は、きっと報われます。人生はつじつまが合うようにできているものですよ」」(P463)

 

「「今度は君が私と約束をする番だ」「約束?」「どんなに大変なことがあっても、ママの前ではできる限り笑顔でいなさい」」(P474)

 

人の死が哀しいのは、それが日常を揺るがす大事件であるからではない。あっけないほど簡単に命が消えていくから哀しいのである。ドラマも奇跡もそこにはない。死は過ぎていく景色に過ぎない。」(P501)

 

「ご主人の几帳面な文字とは違うつたない筆跡で「りさ」と二文字が期されている。わずか二文字。その少し傾いたような二つの文字を目にした途端、胸の奥深くに堰き止められていた何かがゆっくり流れ出したような心地がした。」(P510)

 

「中でも常念岳は格別だ。春は沓然たる霞をまとい、夏は眩い新緑に包まれ、秋は枯淡の茜色に染まるこの祈りの山は、その整った三角錐の立ち姿から、四季を通じて特異な存在感を保っているのだが、冬の美しさは破格である。」(P516)

 

「確かなことは、ひとりで歩むには過酷な道も、誰かとともに手を取り合えば進むことができるということだろう。その先にあるものが、希望か絶望かは定かでない。愉快か苦悩かもわからない。わからないから投げ出すというのは短慮というもので、わからぬままそれでも力を尽くして前へ進むということが生きるということである。だとすれば、手を取り合う人に出会えただけで、人生はまことに豊かになると言えるのではないだろうか。」(P525)

 

昔、二度旅した信州にまた行きたくなりました。そして、この本の中に登場するお酒『信濃鶴』、『酔鯨』を味わいながら、満天の星を眺めたいと思いました。

 

 

お読みいただき、ありがとうございます。