最近のニュースで信仰や宗教について考えることが増えましたね。
ちょうどお盆ですし宗教行事の予定がある人も多いでしょうし、親の高齢化と共に実家の墓じまい問題も気になるところです。今日のテーマは信仰心とか宗教(と墓じまい)にしよう
私は無宗教。
甘夏っちゃんは無宗教の人です・・・というより、宗教行事を信じていないという意味に近いかも。信仰というものを哲学みたいに捉えているので、それは心掛けとか内なる対話だと思っています
なので何月何日になにをするとか、これにはこういう意味があってだから2個買ってこの配置に飾って・・・といった型とか様式にピンとこないんですよね。
親しい人のお葬式にはもちろん出ますし命日に線香とか送ったりもしますが、それは故人や家族側のスタイルに合わせてこちらの弔意を表している感覚です。
どうやってこのスタイルに行き着いたのか思い返してみると。
両親は田舎の仏教徒ですが、本家でも長男長女でもなく実家を出て都会で暮らしているので仏壇や墓の管理はしていません。それでも毎年お盆には帰り、祖父母と一緒に墓参りやら送り火をしなければならないものと認識して行っていました。
親世代でも、宗教行事とは地元のみんながやってるから、やらないと変な目で見られたり常識がない人と言われるから、正直面倒だなと思いつつ最低限のことはやるといった感じです。やって当たり前というほど信仰心は感じませんでした。
それでもリビングに祖父母の写真を飾り花と水のお供えは1年中欠かしません。田舎の様式からは逸脱していますが信仰自体は生活に根付いていました
とある宗教の子供合宿に参加した経験。
遠い親戚で宗教熱心な人がいて、そこの子と一緒に夏休みに子供向けの勉強会に参加したことがありました。うちの親は信徒ではなく、夏休みの思い出にサマーキャンプにでも行かせる感覚だったのでしょう。そこでやったことと感じたことを思い出すと・・・。
同年代の子たちと教本を読んだり、なにか自分に悩みや問題があればみんなの前で話して励ましあったり、教えに沿ったテーマの詩を作って発表したり、野外活動として近所の家をまわりその宗教の月刊誌の古本を1冊100円で売ったりしました。行動は全て少し年長の子がとりまとめ、号令で集まったり並んだり移動の時に宗教歌をみんなで歌ったりしました
正直、その時は特に疑問も感じず学校の修学旅行っぽくて楽しかったです。教えはだいたい良いことを言うし、まじめで穏やかな人が多いし、同年代の子と同じ方向へ一体感を持って取り組むというのはとても気持ちがいいものでした。楽しかったけれどハマらなかったのは、たまたま私が唯一神に向かない性格だったからでしょう。教祖先生の教えこそ全ての正解、そこに向かって自分の誤りを正そう!みたいなノリは、子供ながらに無理〜って思いました。
今話題になってる宗教団体とは違いますがやることは似てますよね。子供の頃から教えを良いことだと刷り込んで、個人よりも組織を重んじて管理下に置き、布教活動や販売や寄付金集めの練習もさせる。ずっとこの環境下で育ったなら大人になって違和感を持つなどありえないでしょうし、やっぱり組織の持つ圧倒的な一体感が依存心を育ててしまうと思います。私はいきなり飛び込んだ外側の人間だったのでどっぷりハマってる人特有の一体感や陶酔感が異様に見えましたが、物心ついた時からその価値観ならそこが心の拠り所であり還る場所なのは理解できるし、そこで心の安寧を得られるなら信仰と共に生きる価値はあると思います(私は無理だけど)。
墓じまいに対する気持ちいろいろ
どこの家庭でも頭痛の種となっている”遠い山奥の墓”問題。うちの親と親戚たちでも祖父母が亡くなってからずーっと議題にあがり、そして何年経っても前へ進まない。うちの親に関しては前述の通り、信仰スタイルよりも合理性を摂るタイプなので自分達が老いた今こそ整理しておこうと考えているようです。
他の親戚は、墓じまいすることで地元の周囲の人からどう思われるかとか、先祖が築いて来たものを自分たちの代で変えてしまうことへの畏れとか、そもそも自分ももう高齢で嫁ぎ先の墓に片足突っ込んでいるのに実家の墓のことなどで今更煩わされたくないとか、気持ちはいろいろです
うちの夫の実家でも同じような話は出ますが、やっぱり前へ進まないのはそれぞれの信仰心の差が原因です。義父は熱心な檀家だったそうですが義母は義父の死後仏壇に造花を飾るタイプで、夫はその宗派を信仰していないためすべての行事がコストに見えてしまうと言います。ゴリゴリの信徒の親戚のおばさんにああしろこうしろと言われるたび、僕はなんのために寺に何十万円も払っているのか本当に意味がわからない・・・と遠い目をしています。そもそも魂の解釈がちがう中で形式にお金を払う意味を見出すのって難しいよなぁ。
今住んでいるところは田舎の方ですが、永代供養やら樹木葬といった看板やノボリをよく見かけます。昔は墓や墓石や仏壇を所有することが良しとされる文化だったのでしょうが、今は不要と考える人も多いんでしょうね。弔う気持ちはいつの時代も変わらないはずなので、やはり形式・様式には文化的な変化の影響があるのだと思います。
私は信じていないのに形式や外側だけ「振り」をするのは最も失礼で意味がないと思っていて。お墓もそろそろ草が生えて来たから隣近所に迷惑をかけないよう掃除をしに行く必要はある、でも信じてないならわざわざお盆の時期に行かなくてもいいと思う。
墓じまいも、自分が信じたければ墓を残せばいいし、自分にとって不要なら永代供養や他のスタイルに変えればいいと思います。残された人が信じる形にまた復活させることもできるでしょうし、それはその時生きている当事者が決めればいいと思うのです。
信じていない人を非難したり無理に入信させたり、逆に信仰を日常生活に深く取り入れて生きる人を奇異な目で見るのは両方違うと思います。友達や知人には宗教団体で働いて毎年冊子を送ってくる人もいますし、礼拝に行けることを優先して栄転を断った人もいますし、家族で信仰して初任給を全額寄付した人もいますし、実家がお寺さんという人も何人もいます。信仰は形式でなく生き方なのだと思います(家族や他人に迷惑をかけるという論点はここでは別とさせてください)。
私は無宗教なので、もし親の代が墓問題を解決せずに逝ってしまい私に相続させたなら、墓じまい&永代供養にして、全員の骨を粉にして混ぜてカプセルに入れクラウドに個人の情報を手に入る範囲で画像などと共に保存します。骨を混ぜて焼いてダイヤモンドのように加工するサービスもありますね。もちろん合法の範囲で、省スペースで所有・移動できる形に変えると思います。
両親にもそう伝えてます。それでいいなら親戚と合議して予算だけ残しておいてと。いやなら自分たちの代で自分たちが望む結論を出して実行してねと。
私はそんな考えですが心の平穏が必要な時は書を読んだり音楽を聴くこともあるでしょう。両親が死んだら写真を家のいつでも見られる場所に置いて花を飾るでしょう。夫は親の命日だけはお線香を焚きます、線香の宗教的な正しい意味は関係なくあくまでもお香として用いて、良い香りの中で父母を偲ぶためだそうです(笑)いろいろですね。