渋谷の駅で菜々を見送り、優希はいつものように歩いて部屋に帰った。途中のスーパーで買い物をした。タマネギ、トマト、レタス、豆乳、野菜ジュース、コーヒー。優希はいつも、買い物をしながら何を食べるかを決めていた。冷蔵庫に鶏の腿肉が余っているのを思い出し、それでリゾットでも作ろう、と思った。

 部屋に帰るまでの間、ずっと菜々の事を考えていた。菜々の事をもっと知りたかった。そして、色々な事を知ってしまったら、辛くなるんだろうな、と思った。普通の恋愛なら嫉妬の対象は過去だけなのに、菜々に対しては、「今」にも嫉妬してしまうのだろうから。


 部屋で一人で料理を作り、一人で食べる事を寂しいなんて思った事は今までなかった。それは、優希にとってあまりに当たり前の事であったから。でも、出来上がったリゾットをプラスチックのスプーンで掬い上げた時、ふと、菜々が家族で食卓を囲んでいる光景を思い浮かべて、少し胸が締め付けられた。

 電話をかけようと携帯を取り上げたが、すぐにベッドの上に放り投げた。もし電話に出なかったら、また、出ても「今は話せないから…」と言われたら、きっと、もっとやるせなくなるだろう。

 リゾットを平らげ、優希はベッドに潜り込んだ。すぐに眠りたいのになかなか寝付けなかった。菜々の声が聞きたかった。心臓の鼓動が身体中に響いていた。


 目を覚ました時、時計は12時を回っていた。身体中が気だるくかった。

 携帯を見たが、菜々からのメールも着信も無かった。また、心臓の鼓動が早くなり、身体中を血液が駆け巡るのを感じた。自分が菜々の事を好きになってしまった事、そして、菜々はそう思っていないのではないだろうかという不安が優希を落ち込ませた。

 菜々は、僕の事をどう思っているのだろう。ただの遊びなのだろうか。それとも家庭を捨ててまで僕と一緒にいてくれるだろうか。そう考えて、優希は自分に嫌気が差した。そんな事を考えるには、優希は菜々の事を知らなさ過ぎるし、菜々は優希の事を知らなさ過ぎであろう。

 携帯の着信音で目が覚めた。ずっと長い間夢を見ていたようだった。身体中に汗をかいていて、細身のジーンズが足に張り付いて気持ち悪かった。

 電話は菜々からだった。まだ、夢と現実の間を彷徨っていて、少し電話に出るのを躊躇してしまった。


「もしもし、寝てた?」

 菜々の声を聞いて、優希の心は急に落ち着きを取り戻した。優希の全てを見透かしていて、それを包み込んでくれるような優しさが、菜々にはあった。

「ううん、ちょうど起きたとこだよ。」

少し枯れた声で優希は答えた。

「嘘ばっか。」

 菜々は申し訳なさそうな声で言い、少し笑った。

「今日、会える?」

 優希はそれを聞いて、自分の心臓が高鳴るのを感じた。そして、自分が菜々の事を好きになってしまった事を自覚した。

「うん、どこがいい?」

「どうしよ…。渋谷でもいい?」

「いいよ。何時ぐらい?」

「そうね…三時くらいでもいい?」

 時計を見ると一時だった。今からシャワーを浴びる時間も充分にあった。

「そうだね、大丈夫だよ。」

「じゃあ、後でね。」


 まだ、日差しは強かった。朝、同じ太陽を見たばかりなのに、それを見るのは久しぶりのような感じがした。

「久しぶり。」

 菜々は、悪戯っぽく笑った。黒の細身のパンツに紺色のシャツを着ていた。

「久しぶり。」

 優希もつられて笑った。本当に久しぶりに会ったような、不思議な感覚だった。

 手は繋げなかったが、並んで歩けるだけで、それでよかった。公園通りの途中にあるカフェでしばらく話した。このまま、時間を止めてしまいたかった。二人は、帰る場所が違うのだから。

 優希は、以前は大学で法律を学んでいた。弁護士を志している事もあった。それは、例えば地位や名誉や、また経済的な目的の為ではなく、自分の理想を叶える為だった。しかし、法律を知り、また、人を知り社会を知り、全てを知れば知る程、優希は、それが自分の思い描いていた理想と掛け離れていると感じるようになっていった。

 優希は、法律は全ての人々が平等に公平に、幸福な生活を送る為の道具だと思っていた。しかし、実際には、その道具を使いこなせている人はほとんどいなかった。日本においては法律の存在を意識して生活している人はまだ少なく、未だにある種の社会的慣習や仕来りと言ったものが根強く残っていると思っていた。だが、全ての人が固有の存在として自立する為にはもっと別の形のルールが必要であり、それが法律である、と思っていた。それは、人間が社会的な存在であるからこそ社会を形成し、社会的に生きる為に作り上げてきたものが法律である、と考えてきたからだった。だからこそ、それを全ての人が平等に使える必要があるし、また、一部の人にだけではなく、全ての社会的な存在であろうとする人々全てにとって、それは平等なものでなければならない、と考えていた。


 だが、ある出来事が優希に絶望感と、そし無力感とを与えた。それは、優希が描いていた理想を全て打ち崩し、生きていく意味さえ失わせる程のものだった。


 二年前の、六月、雨の降り続いていた日だった。その日の夜、優希は飲食店でのアルバイトを終え、疲れ果てて帰って来た。部屋に入ると、すぐにベッドに倒れ込み、そのまま意識が遠のいていくのを感じていた。少しして、突然携帯が鳴った。それが麻衣からの着信だと分かると、優希ははっきりと意識を取り戻した。

「もしもし、優希?」

 明らかに、いつもの麻衣とは様子が違った。いつもはのんびりと話すのに、この時の麻衣は、早口で、泣きそうな声になっていた。

「優希、どうしよう…」

「どうしたの?」

「優希…」

 それっきり、麻衣の言葉は言葉にならなかった。それはやがて、泣き声に変わっていた。優希には如何する事も出来なかった。何を言っても、麻衣は泣き止まなかった。とりあえず、麻衣が落ち着くのを待とうと思った。しばらくして、電話は切れてしまった。その日、優希が麻衣の声を聞く事はなかった。


 何日かして、優希は真相を知った。麻衣がろくでもない男と付き合っていた事、その男の為に借金をしていた事、そして、その為に風俗に落とされてしまった事…。優希の力ではどうにもならない事だった。初めて、自分には何の力も無い事を思い知らされた。そして、自分の思い描いていた理想が、現実とは程遠いものでしかない事を。

 気丈に話す麻衣の声を聞きながら、優希は涙を流していた。その涙が、麻衣の為に流したのではなく自分の為に流したものである事に気が付いて、優希は自分の存在を恨めしく思った。そして、自分と言う人間に意味が無いような気がした。それまで生きてきた事の全てを否定されてしまったのだから。

 昨日の雨が嘘の様に、空には雲一つ無かった。初夏の明るい日差しが二人を照らした。その眩しさに、優希は少しだけ罪悪感を覚えた。

「外で手を繋ぐのは止そう。」

 優希の手は、菜々の手を掴もうとして、そのまま宙を彷徨った。

「そっか。誰が見てるか分からないもんね。」

「うん。ごめんね。」

 二人の間を、少しだけ重たい空気が流れた。優希は、隣にいるのに手が届かないようなもどかしさに、少し苛立った。このまま二人が引き裂かれそうな錯覚に襲われ、それは嫌だと感じた。そして、そう感じた自分を少し不思議に思った。

「どうやって帰るの?」

「私はタクシーで帰る。」

「大丈夫?」

「何が?」

 優希は少し息を飲んだ。

「家に、旦那さんと子供いるんでしょ?」

 少しだけ沈黙が続いた。それはほんの数秒だったが、優希には、それが終わる事の無いように感じられた。自分で自分にかかっていた魔法を解いて、現実に帰って来てしまったように思えて、優希は後悔した。

「大丈夫だよ。」

 菜々は静かにそう答えた。しかし、優希と目線を合わせはしなかった。


 道玄坂の途中でタクシーを捕まえ、菜々はそれに乗り込んだ。

「また会える?」

 優希は不安そうに聞いた。

「優希が会いたいって思うなら。」

 菜々はニッコリと笑って答えた。その笑顔が、優希の心の奥にある不安と罪悪感を打ち消していった。


 優希は歩いて帰った。優希は、渋谷からなら、大体30分くらいのところに住んでいた。いつもなら、音楽を聴き、鼻唄を唄いながら歩くのだが、生憎、昨日はそこまで気が回らず、ウォークマンは部屋に置いたままだった。

 雨の濡れた服はまだ乾いていなかった。早く帰って、服を脱ぎ捨てたかった。照りつける日差しからも早く逃げ出したかった。まるで、何かに問い詰められているかのようだった。

 アパートに着くと、携帯が鳴った。

「もう着いた?服まだ濡れてたし、風邪引かないでね!」

 菜々からのメールだった。優希はベッドに仰向けに転がり、しばらくそのメールを見つめていた。

 微かに、菜々の残り香を、優希は自分の髪から感じたような気がした。

 部屋に入ると、二人は長い長いキスをした。口唇が離れてから、二人は少しの間見つめ合った。綺麗な目をしている、とお互いが思っていた。お互いに、その瞳の中に吸い込まれていきそうな錯覚に陥った。

 それから、優希は菜々をベッドの上に押し倒し、二人は激しく抱き合った。まだ出会ったばかりなのにふたりはずっとずっと求め合っていたかのようだった。欲求と快感が二人の中を駆け巡っていた。二人は同時に絶頂に達し、優希は激しく肩で息をしながら、菜々の口唇とおでこにキスをした。


「私ね、結婚してるの。」

 先にシャワーを浴び、ベッドの中に入っていた菜々が言った。

「子供もいる。今1歳。」

 優希は、タオルで髪を拭きながら、黙って聞いていた。

「こんな女、嫌だった?」

 優希は、それに答えずに、ベッドに入り菜々の肩を抱いた。

 多分、僕は菜々の事を好きになった、と思った。でも、彼女には夫がいる。子供がいる。それなら、僕の気持ちを伝える事に意味はあるのか?そもそも、こんな気持ちを抱く事自体、無意味なんじゃないか?じゃあ、何で菜々はここに来て、僕と抱き合ったんだ?優希の頭の中を、色々な考えが浮んでは消えていった。

「何かね、悪い事がしたくなっちゃったの。」

 菜々は、少し諦めたような笑顔を見せた。

「家事も子育ても何もかも、全部投げ出したくなっちゃったの。今の自分のやってる事にに嫌気が差しちゃったの。それでフラフラ歩いてたら、そしたら…」

「そしたら、僕と出会った。」

 優希は、菜々の目を真直ぐ見つめながら言った。

「出会ったって言うか、道路に飛び出しそうになってたんじゃない。」

「確かに。」

 二人は声を上げて笑った。優希は、こんなに笑ったのはいつ以来だろう、と思ったが、よく思い出せなかった。

「ねえ、でも勘違いしないでね。」

 菜々は、少し不安気な表情だった。

「最初は、ただ悪い事がしたかっただけだけど、でも、出会えたのが優希で本当によかったよ。」

 優希は、少し目頭が熱くなったのを感じた。それから、菜々の身体を自分の方へ手繰り寄せた。

「まだ出会ったばかりだし、まだ僕がどんな人間か分からないでしょ?なんでそう思うの?」

「だって、温かいから。」

 菜々は、両腕を優希の背中に回した。

「こうやってると、温かいから。心も身体も。」

 それから、二人はもう一度抱き合った。

 一人ぼっちだった。もう、何も信じられなかった。夢も希望も未来も、何もかもが見えなかった。ただ、絶望と言う現実だけが、そこにあった。

 その日、初めて菜々と出会った。


 優希は、渋谷の人混みの中を掻き分ける様に歩いていた。擦れ違う人が皆自分の存在に気が付いていないかのような、妙な孤独感に苛まされていた。空からは大粒の雨が零れ落ち、時たま、雷鳴が轟いた。傘を持っていない優希の身体には容赦なく雨粒が打ちつけたが、その冷たい感触が、優希に自分が生きている事を実感させた。

 駅前の大きな交差点では、沢山の人が行き交っていた。一つの傘の中に身体を寄り添って入っているカップル。スクリーンを見上げながらゆっくりと歩く者、片手に携帯を持ってせわしくメールを打っている者。

 信号が赤になり、やがて車が水飛沫を上げながら通り過ぎて行った。信号待ちをする人は幾重にもなっていた。優希は、その重なりをすり抜けて行った。着ていた黒のサッカーシャツ、細身のジーンズ、迷彩のキャップはずぶ濡れで、重たく優希に圧し掛かっているようだった。人混みを抜け出すと、優希はそのまま交差点の中へ歩き出しそうになった。

 その時、誰かの手が優希の手首を掴んだ。優希はそれに気が付かなかったが、その手は優希の身体を無理矢理引っ張り戻そうとした。そのせいで、優希は後ろによろけて倒れ込み、その上にその手の持ち主が覆い被さった。

 しばらくの間、二人は倒れたままだったが、その手は優希の手首を掴んだままだった。二人は立ち上がると、少しの間、お互いを見つめた。肩にかかるくらいの、落ち着いた茶色の髪、パッチリと開いた大きな瞳、白い肌、やや光沢のある、薄い紫のシャツ、ベージュのスカート。背はそれ程低い訳ではないが、優希と並ぶと少し小さく見えた。

「ごめんなさい。」

 彼女は、恥ずかしそうに目を逸らしながら言った。

「飛び出したら危ないと思って…」

 優希は、その言葉を遮る様に彼女の手を握った。とても温かい感触だった。その温もりは、優希の身体中を流れる冷たい血を癒していった。二人は並んだまま、信号が変わるのを待っていた。

「名前、聞いてもいい?」

 彼女が聞いた。

「優希だよ。優しいに希望の希。そっちは?」

「菜々。菜っ葉の菜だよ。」


 二人は、手を繋いだまま、無言で歩いた。どこへ行くのかは、暗黙の了解であるようだった。二人の足取りは、全く迷う事無く、同じ方向へと進んでいった。

 ホテルの前まで来て、菜々は、周りを少し気にしながら恥ずかしそうに、聞いた。

「私なんかでいいの?」

 優希は、少し微笑みながら返した。

「僕なんかでいいの?」

 菜々は、それにつられて少し微笑みながら、少しだけ頷いた。

「それなら大丈夫。」

 優希も、少しだけ頷いた。