相談を受けていると、危機的な状況の場面での相談も入ります。
生きていることに疲れ、なぜ生きなければならないのか、自問自答し、もがきながらの相談です。
そういう時ばかりではなく、慢性的に自殺したいと考えている人たちも大勢います。
こんな時、あなたならどうしますか?
恐らく、懸命に引き留めようとするのではありませんか?
私もかつてはそうでした。
死にたいと思っているのに相談をしてくるというのは、まだ生きたいという希望があるからなのですね。
そこで、引き留めてほしいという気持ちがあるのは誰が考えても理解できるでしょう。
少し、遠くから眺めてみましょう。
漱石の「こころ」の主人公先生の遺書についてのある方の著書を読みながらの考察です。
夏目漱石の「こころ」
教師としての倫理的責任
行動の帰結はふつう予見できない。
他人によって、どんな思いも寄らぬ意味を読み取られるか予断を許さない。しかし、まさにそうであればこそ、責任を負うことが意味を持つのだ。
それゆえ責任とは、厳密にいえば、責任能力のないことへの責任であり、あらかじめ持ちえなかった意思を過去に遡って持つことであり、主体がいまだ存在しなかったところに、結果から遡って主体を想定することだといえるだろう。反抗的な子供のせりふは、しばしば「生んで欲しいと頼んだわけじゃない」「こんな私に誰がした」という形をとる。教育は、「こんな私になることを欲したのは、いまだ存在していたはずのない、ほかならぬ私自身である」「生まれることを欲したのは私自身である」と断言する主体を生みだすことである。教育は、教育を欲したのだと断言する主体をあらしめることによって、教育自体を出し抜かせるであろう。
いかがでしょうか?
生きたいという気持ちはだれのものですか?
説得しようとしてそこで説得できても問題の解決にはなりません。
そこでも、他人の意志のもとに生かされてしまうからです。
生きるとは何ですか?
あなたにとって生きるという意味は何でしょうか?
生きる本人がそれを自覚しなければ、他人任せの人生を送ることになりますね。
お子さんのうちに、生きる意味 アイデンティティを確立できるといいですね。
教育とは、知識を教えるだけのものではありません。
こうした教育がなされているでしょうか?
死んでしまいたいと思う人に「生きていればいいこともあるさ」ということがどれだけナンセンスなことなのかお分かりになりますか?
私は以前、このようなことを言って「いつ、いいことがあるの?その確信は?」と言われたことがあります。
思春期のお子さんがよくいう言葉に「生んでほしいと頼んだわけではない」という言葉があります。
あなたは、その時どのように答えるでしょうか?