なんか例のバングラ事件のせいで、モヤモヤして正直、素直にイードを喜べないところだけど。
ISじゃないってきいて、更に腹が立つ。
ISはムスリムも関係なく殺害するので、筋もなにもあったものじゃない、たんなるキチガイ集団であるが、この事件の犯人はムスリムだったら殺してはならない、非ムスリムは殺してもいい、という相当原理主義的な考えのもと行っている。キチガイ集団であればキチガイで終わるところ、この犯人らは単なる浅はかな知識で行動し、これだけ波及を生み出してしまった。

テロとイスラームの聖戦の区別がつかない、とはどういうことなのか。

どんな事をどう教わってこんな事になるのか。

親の責任は大きい。
イスラーム教育の基礎は親が土台を作る。
正しく、正しい知識を学んでいればたいがいのムスリムは正しくイスラームを理解する。

イスラーム教育の土台がないところで、変な知識が与えられると誤ったイスラームを理解する。これはその典型だと思う。

イスラーム教育の大切さ。

自分の子どもがそうならないように、親はしっかり正しくイスラームを子どもに教育する、コミュニティーがしっかり教育する。教育をする資格のある人は、今以上に教育の機会を設ける。これはホントに人ごとではない。ムスリムが個々に、これをきっかけに自分の周りの人たちに対する教育を見直すべきであると思う。
原理主義に感化された教育を’知らずに’受けているムスリムは以外と多い。

先日もある集まりに参加したら、そのうちの一人は若い女の子であったが、その影響を受けている人であった。そんな彼女がメディアに対して意見を述べている。私はその瞬間に脅威を覚えた。日本でもテロはありえる。それを未然に防ぐには、ムスリム同士が正しく導かれるよう教育をし合うことが重要である。イスラームの教育はたいがい人任せになりがちであるが、今一度自分の知識を分析してみる、原理主義の影響を受けているかどうかを確認してみる、正しい知識を見極める知識があるかどうか確認してみる。まず、問題をアイデンティファイできるかどうかがポイントである。

ハラール認証も同じである。忌避するものをアイデンティファイできるかどうかで、ハラール化できるかどうかが分かれる。(余談。。)

それ以前に知識を持ち合わせていないものは、知識のある人から知識をもらう。
しかし、この先生が誰かによっても大きく変わるので、見極めは慎重にしなければならない。先生のなかでも原理主義に感化されているひとは多く存在するので。要は、人として納得のいく人であれば、問題ない、と考えるといいかもしれない。知識はあるかもしれないが、人としてどうなの?という人は適任ではない、という意味である。

これらのテロの一連は、OIC(イスラーム機構)は、「~のテロに対して、断固反対する」と表明はするが、それ以上のアクションは起こさない。起こせない。ある国が国をあげて、ISをぶっつぶす、なんて国である以上ありえないのだから。ムスリム同士でなんでなんとかしないのか、という点に関して、テロに対してアクションをする事自体がテロになってしまうので、何をしているのかわからなくなる。

自分たちはテロとは違う、言っても、「そうかもね、でもテロ起こしてるのイスラームの人だよね」このバングラの件はムスリムである。ISはムスリムかどうか私には分からない。自分たちとテロが違うことを表明しても、イスラームはテロじゃないことを表明しても、今社会が必要としているのは単なる表明ではなく、行動である。
これが、日本の社会のフラストレーションになりつつあるのだから、何を行動すべきなのかを考えなければいけない。

少なくとも、これらはムスリムのコミュニティーの中から生まれているのだから、何か打つ手はあるはず。

もし国内のムスリムの中で、変な考えをもっているものがいると通報するなり、改めせさるなり何らかの行動をとること。

ムスリムを統治するカリフがでてくる時まで、この状態が続くのかもしれない、でも分かっているのは、この状態に終わりが来る事。それまで、ムスリム個人個人が責任をもって、自分のパーツを全うすることである。良い社会を手に入れたければ、心と思考を良くし、良く行動することである。

教育とは何時の時代も、何に関しても人のベースになる。
良い教育が、今、我々にできる唯一のことではないだろうか。

日本の社会が、世界の社会が健全に、健康に平和に過ごせますように。
今回の事件の犠牲者の家族にご慈悲がありますように。
アーミン