彼に言わせれば、私のパーソナリティ。
古い人間のそれに近いのであろうとは思う。
或いはいずれそうなるであろう状態を、些か早く迎えたのかもしれない。

私の生まれ育ちがド田舎であることも関係している筈ではある。
人口も少なく高齢者の多い、所謂少子高齢化や過疎化などと言われるコミュニティであり、そこでの暮らしが影響している点は自覚がある。
あの地域で関わる人達が概ね家族というものを運営する立場の人間であった。

昨晩のとある会話から、同年代の人間関係における諸々の違和感がどのような認識の差異から生まれるものかと言うのがわかったような気がする。
それをただ記したいだけである。

育った環境と一言で言うと、最早なにも太刀打ちできないような不思議な終止感を覚える。
然し、はたしてこれがそう育てた周りの人間の所為にすべきかと言われるとそうとも思えないし、逆にそう育ったからもうどうすることも出来まいと安直な考えに至るのも間違っているのではないか。
性根はなかなか変わるものではないにしろ、自らに習慣づける努力であったり、知らなかったことを認識することであったりで、ある程度人としてのあり方を改善する余地は十分あるだろう。

コミュニケーションにおいて、相手を慮る言動であるとか、失礼のない振る舞いというのは、最低限人として兼ね備えていなければならない部分であると思っている。忖度忖度と騒がれるが、忖度ほど高度なコミュニケーションは無いのではないかという気さえする。
道徳や常識などという言葉だけ見ると、具体性のまるで無いものに感じてしまうのだが、それが人としてアリかナシかの判断はとてもシンプルである。
この場面で、こうすると、相手に嫌な感情を与える。
この場面で、こういう態度を取ると、人間関係が潤滑になる。
とか、少し考えたらわかることばかりではないのか。

バイトテロなるものが変な流行り方をしていて感じるのは、これがアリかナシかは社会に出てから覚える物ではないだろうということ。
バイトをするという段階で、少なくとも必要な常識があって、ただ単にそれが欠如しているだけである。
こんなものははっきり言ってバイト出来る年齢になるまでわからないまんま育てられた或いは育ったということでしかないし、法的措置云々とかなってしまった時点で手遅れ感は否めない。

そんなことはどうでもよくって。
家族を運営する〜〜の話に戻ると、我々の年代がいずれ家長となる時に、下の世代の人間に恥をかかせない為に何が出来るかという話。
大抵の事柄は、そうなった時に考えても遅い。

その育った環境次第かもしれないが、常識的にこれは良い悪いの判断がしきれていない人間も周りには少なくないと感じてしまう。
実際に体験しないとわからないこともあるし、それは仕方が無いことかとは思うようにはしているのだが、やはり少し考えれば分かるのでは?という疑問も生じてしまうのが事実だ。
考えたくないのか、考える気もないのか、考えるという事がそもそもわからないのか、という話にまでなってしまう。
そうなった時に考えるつもりが、そうなった時のことを考えたことも無いから、そうなった時に常識的にアウトだろ…と思われてしまう事態になっている気がしてならない。

我々は今のうちからやらなければならないこと、考えなければならないことが山ほどあるように思う。
家族を運営する気すらそもそもないと思われる人間と関わるのが最近苦痛に感じてしまう時が多々ある。
近い人間だと尚更に。
やり時があるというのもわかる。
然しいつまでも子供じゃいられないし、いずれ我々も年長者になることを考えたら、遅すぎて困ることはあっても早すぎて困ることは多くない。

古い考えなのかもしれないが、考える必要は少なくともあると思っている。
今の若い者は、という言葉に反抗の態度を示すべき世代ではあるのだが、共感の姿勢を取ってしまう今日この頃である。

そんなことを、昨晩会話した人間は、やはりある程度共感してくれていたのを見て、安心も一入であった。