映画の思い出じゃないです。
勿論、映画の各シーンはいろいろ思い浮かぶし、まだ複数回見たいんだけれども。
秀吉に「佐吉!」と呼ばれて「これに」と控える三成から「ひょえ~ッ、渋ッ、美しい♡」となっていましたけれども。
思えば、秀吉とのシーンも、長くはないのにいろいろいいシーン目白押しでした。
輿入れしたばかりの姫君の、三条河原での処刑連座に助命を願い出る三成。
丁寧な三成の「おねだり」に対して、すげなく却下する秀吉。
このときの岡田くんの、いえ三成の、主君に対して無私の忠義を捧げているのにもかかわらず、主君にとっては犬に過ぎない扱いに対して、義に徹しながらも、恐れ、傷つくまなざしの描写が見事です。
また、秀吉の死の床にあって、直に自らの指で主君の涙などを拭い、なおも慰める言葉を捧げるのには思わず切なさを感じましたね。
処刑に関して唯一助命される池田家の姫君ですが、これ、三成が最上の姫君の助命を申し出る際、「池田家の姫君のようにご助命いただくようになりますまいか」と嘆願しますが、この、池田家の姫君は、謀反を疑われて切腹に追い込まれた豊臣秀次の正室なのです。
秀次は、秀吉の姉の子で、秀吉の最初の子が病死したのち、正式な後継ぎとして秀吉の後を継いで関白になっていたのですよね。で、秀吉は太閤に格上げ、と。
でも、秀頼が生まれ、実子に跡を継がせたかった秀吉は、甥に謀反の疑いをかけて死に追いやり、その一族郎党を秀頼の今後の為に根絶やしにしてしまうのです。
ところが、池田家というのは、もと織田家の家老筋の家柄で、当主の輝政は加藤清正・福島正則らと同じく七将の一員で、後に三成襲撃事件にも参加しています。
故に、正室でありながら、輝元の妹は助けられたのです。
反対に、秀次と対面したこともない最上の駒姫は連座して処刑されてしまうのは映画の通りですが、最上が次の権力者になるであろう秀次に娘を差し出したことが、秀吉にとってはさもしく感じてしまった、という解釈でしたね。
秀吉にとっては、東北の最上家など辺境の田舎大名に過ぎなかったのかもしれません。
最上は伊達政宗の実母の実家で、私の希望的憶測としては、三成は伊達と秀吉の間を取り持つ秀吉の側近として政宗と懇意だったので、政宗の姪に当たる駒姫を助命したかったかもなァ、とか。これは甘いか。伊達と最上は親戚でありながら、領地をめぐって相争う間柄ですし。
もともと、伊達と秀吉の取次は浅野長政でしたが、対応が気にくわず、政宗の方で絶縁状を送り、三成がその後の取次を引き継いだ経緯があります。
三成はおそらく、辺境の大名たちの言い分もうまくさばいていたんでしょうね。
関ヶ原の際も、上杉と伊達は交戦していましたが、西軍が決起したことを聞くと戦況がはっきりするまで、伊達は上杉と講和を結んで、家康側についていた最上からの援軍要請の回答を引き延ばしています。
もっとも、石田三成が三条河原の処刑の首謀者であったとする一説もあります。
根拠は見つかってないみたいですが、秀次を三成がおとしいれた、という後世の創作があるのです。
映画では小早川秀秋が三成に詰め寄っていますが、その頃の世間ではその説が流布していたという下敷きあってのことと思います。
冷たくて人情を介さないイメージの強い三成ですが、ちょっと、松平定信みたいな人だったんじゃないかなぁ。
松平定信は江戸時代、賄賂で有名な田沼意次の後、政治改革に臨んだ人ですが、田沼時代と正反対に、清い政治を目指して結果、取り締まりが厳しすぎて幕府内からも民衆からも批判が集中しました。
でも、このとき、国際的にはフランス革命の飛び火でネーデルランド(オランダ)にも戦禍が及び、一時オランダ商館のある日本にはフランスやイギリスの介入、また、ロシアの南下政策に伴い、オランダの引いた後はロシアの影響下に置かれる危険性がありました。
定信はこれをうまくさばいて危機を回避。
領国では名君と尊敬を集めていたと聞きます。
なんか、三成と似てませんか?(笑)
さて、冒頭の話がすっかり置き去りですが、私、昔OLやってた時は、メーカー営業で、客から注文があると、滋賀彦根の工場から建材を手配して関東各所に送る仕事してました。
そんな時にねぇ、関ケ原はホント泣き所だったのです、毎年。
雪の季節になると、関東に上る幹線道路がたびたび関ケ原で通行止めになっちゃうの。
工事期間はびっちり決まってるのに、建材が届かなくてその度に各所に調整の電話しまくりでした。
現代でも関ケ原が東西交通の要所であることは変わっていなかったみたいですね。
工場に出張した時なんか、琵琶湖を望んでいろいろ夢想しましたよ。
古代史からこっち、琵琶湖は様々な歴史の舞台になっていますからね。
琵琶湖畔、三成の故郷である近江は京都を抑える要衝の地でした。
この地を巡って昔から様々な戦乱が巻き起こってきたのです。
映画でも三成が触れていますが、朝廷が近江にあった飛鳥時代、後の天武天皇である大海人皇子がその地で先の帝の王子、大友皇子と戦端を開きます。
定説によると、叔父(大海人皇子)と甥(大友皇子)との骨肉の争い、ということになるのでしょうか。
大友皇子についてはあまり多くのことはわかっていませんが、例えるなら彼が三成で、大海人皇子が家康かしら。
三成自身が冒頭で大海人皇子に触れるあたり、すでに三成の敗北を匂わせる気もして、これも切ない演出でした。