日曜の外出で読み終わりました。

えらい面白かったうえに、ドキュメンタリーベースですから様々な示唆に富んだ本でした。

私はこの柳田邦男って方の著書が好きで、ちょっとずつ、見つけるたびに読んでいこうと思ってるんですけど、アマゾンで岡田くん表紙のAERAを購入するとき、抱き合わせで数冊注文して、その中の一冊です。

このひと、もとNHKの記者で、航空機の事故や医療事故、また災害などのドキュメンタリーを多く書かれています。御巣鷹山の日航機事故の時は、解説でよくテレビに出てらしたみたいです。

 

この本は、映画「この世界の片隅で」で舞台となる、戦争末期の広島を題材にしているんですが、ノンフィクション形式で、物語は広島気象台のNO3、北技手を主人公として回ります。

プロローグは東京の中央気象台。

「海賊とよばれた男」冒頭に描かれたことで記憶に新しいですが、同じように東京大手町の中央気象台にも焼夷弾の雨が降り注ぎます。

数百機のB29が東京の空を覆い、一坪当たり14本もの焼夷弾が降り注ぎ、しかも、一晩にそんな空襲が複数回襲いくるのです。

その当時、気象観測データの把握は戦争に必要な情報ですから、軍隊に交じって気象台員も死に物狂いで消火と観測に当たります。

徹夜での作業に夜食が出るんですが、陸軍兵士には白米、海軍兵士には白パンが出るのに、気象台員には「ネコマタ」と呼ばれる”貴重”な食料が支給されます。

猫もまたいでとおる、というひどいもので、キビとドングリ、ワラの粉でできた餅のようなもの。

栄養失調で目がかすみ、観測図の線が引けないような台員優先で与えられましたが、食して帰宅した人が腸捻転にかかったことから別名「チョウネンテン」と呼ばれたりしたんだそうです。

劣悪な環境の中、気象観測を続ける中央気象台がふと気づくと、毎日全国から送られてくるはずの気象データのうち、広島のものが届いていません。

戦争末期の全国気象台網は、空襲などで連絡の途絶することも少なくないので、当初は誰も気にしませんが、それがだんだん、アメリカの落とした新型爆弾のためだということが分かってきます…。

 

広島では運命の朝、北技手が広島気象台で、無線で届く暗号情報をもとに気象図を描こうとしていました。それをもとに、中国地方の軍関係に気象情報を連絡するのです。

窓辺で受信していた北技手は突然の閃光にとっさに机の下に伏せ込みます。

爆心地から3.7キロ離れていた気象台でしたが、窓枠はひしゃげ、窓ガラスはすべて吹き飛び、甚大な被害を受けます。

その日、たまたま爆心地近くの役所に気象台の用事で出かけていた台員はついに行方不明のまま。通勤途中に被爆した台員も、大やけどを負い、身内が遠方から迎えに来るまで宿直室で大した手当も受けられないまま寝たきりになります。

家族の安否も定まらず、皆が何かしら負傷する中、満足な治療も受けられず、食糧もままならないまま、台員たちは気象のデータを取り続け、そのデータを中央に送ろうとあがきますが、打電のために爆心地に近づく台員たちの前には想像を絶する世界が広がっているのでした…。

そんな広島が少しだけ日常を取り戻す糸口をつかむころ、第二の悲劇が襲います。

原爆の直撃を運よく避けられた人々が、バタバタと急性原爆症で倒れ、体力のないものから次々と亡くなっていきます。

ようやく、重いやけどの癒えかけた台員も、原爆症に苦しみ、台員たちは気象台の仕事からドロップアウトせざるを得なくなる。

そんな中の、終戦の宣告。それまでの張りつめた世情の糸がぷっつり切れる。

それでも、北技手は気象台の維持と観測に努め続け、だんだん、離れていた台員たちも復帰しだします。

9月に入り、台風が日本を襲い始めます。

戦争の爪痕の著しい日本列島は、大自然の猛威に立ち向かう術もありません。

頼みの綱の気象台の気象情報は、復旧に向けて働く人々をしり目に、依然ズタズタに切り裂かれたままのなのでした。

そして、広島を風速75メートルを超える枕崎台風が襲います。

原爆は一瞬で20万人以上の人々の命を奪いました。

あまりにもその災厄が激しすぎて、その後の台風の被害は多く語られることはありませんが、この枕崎台風のために、原爆症や癒えぬ原爆の傷にあばら家で風雨に耐えた二千人以上の人々が、広島の土地柄のために大規模な土石流で命を落としていったのでした。

そのころ、原爆の被害を調査するため、京都大学の研究班が宮島の向かいに当たる大野浦の陸軍病院を拠点に調査と治療に奔走していました。

土石流はそこも襲い、一瞬で研究班のメンバーや治療に当たった医師を含め、150人以上の人の命を奪います。

同時に、貴重な原爆調査の資料も失われていったのでした。

北技手は、中央の意向も受け、気象台のメンバーと原爆と枕崎台風の調査を地道に重ね、詳細な記録を残します。

世界に例のない、気象方向から原爆の被害と黒い雨の詳細を記した貴重な資料なのでした。

けれども、その記録が日の目を見るのは戦後の日本の独立を待たなくてはなりませんでした。

アメリカに都合の悪い資料はGHQの接収を逃れることはできない。

北技手は接収されつつも、手元に資料を残し、昭和28年になって刊行を果たすのでした。

 

このノンフィクションは、当時の気象台の台員たちや当時の資料に、可能な限りインタビューと調査を重ねて書かれたもののようです。この柳田邦男という人の取材姿勢には定評がある。

これぇ、岡田君主演で、映画なりドラマになったらさぞ有意義なものができるだろうに、とか想像しちゃったんですが、一方ドキュメンタリーって難しいんだな、って痛感しました。

自分がお話を考える立場だったら、主人公がここまで大変な目に遭いながらも生き抜き、様々な調査を成し遂げることの説得力をどこに持っていけばいいかがすごく悩んじゃう。

本当のことだからこそ、ここにノンフィクションとして存在するわけですけど、ドラマだったら「なぜ、ここまでできるのか?」という、視聴者を納得させる材料が足りないような気がしてなりません。

「だって、本当のことだから感動しろ!」じゃ、フィクションの説得力は生まれない。

見る人の共感を呼ぶためには、私がこの話をまとめるなら、北さんはサイドキャラで、主人公は北さんの下で働く架空の台員とかにして、好感を抱いていた台員が行方不明になったり、尊敬していた人が被災したりして、その人のために自分は弱音を吐けない、から生き抜き、間近で一緒に活動して北さんを尊敬する、とか、わかりやすくしちゃいそう。

タイタニック形式だわ…。

 

柳田邦男が取材した、実在の北さんは非常に淡々として、自分がそうしたことを成し遂げたことに、英雄的な行為をしたなんぞ微塵も想ってないんです。

柳田邦夫自身も、北さんのことを、平凡な気象人と評しています。

でもね、成し遂げたことをよくよく考えるとすごいことですよ。

その当時、淡々とそういったすごい仕事を義務感だけでこなしていた人が無数にいた気がします。

うーん、義務感だけ、というのは語弊がありますね。

きっと、自分に求められる仕事以上に、何かをなさなねばならないと燃えた人たちのいた時代。

そうでなければ、ある意味、生きていけなかった時代。

今だって、きっと燃えてる人はいると思うけど。

 

こういう、ほんとにあったすごいこと、を、映画化されたとき醍醐味を感じるためには、ある程度素養がいるんじゃないかと最近思うようになりました。

親切な映画の作りに運ばれて観賞が終わるような映画じゃなくて、見終わって?が付くような展開でも、再度見たとき、論理破綻してなくて、新たな切り口で物語を切り取ってるんだ、ということが分かるような大人の映画。

「海賊とよばれた男」ってそういう映画だと思うんですよ。

今も思い返すと、社歌が頭をまわってなんとも言えない熱い気持ちというか暖かい気持ちを感じたりします。

ぜひ、国岡鐵蔵の切なくも激しい人生を感じてほしいなぁ~♡