最近、子供が犠牲になる事故が多くて、気が滅入ります。

防災訓練で消火訓練の準備中に火が飛び散り、6歳と8歳の女の子が火だるまになったり。

先日は花火大会で8歳から13歳までの子供が重いやけどで予断を許しません。とうとう一緒にやけどを負ってしまった女性はなくなってしまいましたし。

日ごろ、事故というものはどうして起こるのか、とても興味深く見守っています。

それこそ、たくさんの方が犠牲になる事故から、その個人の人生を深く左右するけれども小さな事故まで。

事故の経緯とその原因を知ることが、人間や運命というものを知る一つの手がかりになるような気がしてならないからです。

そして、純粋に自分や家族が生き伸びるすべを身につけるために注意深く勉強したいです。


事故というものは、奇蹟と似たような部分がある気がします。

いい方に転ぶ奇跡、というものも、多数の偶然が重なりあって起こりえるものです。

例えば、昔外国で聖歌隊が難を逃れた逸話があります。

メンバーは十五人で、決まった曜日の決まった時間に教会に集まって聖歌の練習をするのですけども、ちょうどその練習のその時間に、教会がガス漏れか何かで爆発を起こしました。当然近隣の人も牧師も、聖歌隊は全滅したと思ったものです。彼らは几帳面に練習を欠かしたことはありませんでしたから。

ところが、その日に限って、15人のメンバー誰一人として教会にいなかったのです。

ある人はたまたま寝坊したり、ある人は子供が熱を出したり仕事だったり、偶然にも全員が練習に参加していなかったのです。

当時の人はこのニュースを聞いて神の奇蹟と報じたものでした。


また、ある事故はある家の階段で起こります。

主婦になったら、左の薬指に細い結婚指輪をはめている人は少なくないでしょう。

そして、宅急便とか荷物が来て急いで階段を下りて受け取りに行く人も少なくありませんよね。

彼女もそうしました。ふつう、ある通りに。

でも、運悪く、彼女の細い指輪が、階段の手すりの金具に引っかかってしまったのです。

勢いよく階段を駆け下りていた彼女は、指を切断する大けがを負ってしまいました。


またある事故は、三歳の女の子の身に降りかかります。

昔、よく通販で、折り畳み式のふみ台がしきりに売られていたものでした。

開けば高いところに安全に手が届き、閉じれば細いところに便利に収納できる。

ある日、女の子が家で遊んでいる時、たまたま大人が開いたままにしていた踏み台を押して遊びはじめました。

大きな踏み台が、女の子の力でも楽々床を滑ってうごいていきます。

女の子は楽しくて堪りませんでしたが、床の敷居に踏み台が引っ掛かり、前に進めなくなりました。

女の子は力いっぱい踏み台を押します。

女の子の体重をかけて、踏み台は敷居を境に倒れてしまいました。

踏み台は畳まれます。女の子の小さな指を挟んだまま…。


フューマンファクターというものはいろいろな定義がありますが、「ここであれに気づいていれば…」「ここでああしなければ」と思っても後のまつりです。

人間が気をつけていれば防げた事故も多々あります。

ですが、人間というものは常に気をつけていられる生き物ではないと思うのです。

これくらい大丈夫、ということを繰り返していても、よくよく運が悪くなければ不幸は意外と襲いかからないものですし、どうしても油断というものが生まれるのです。

魔が差した、うっかりした、という隙を縫って、いろいろと不幸な出来事はふりかかります。


事故を検証することによって、その犠牲は無駄にならないと思うのです。

女の子の指は犠牲になってしまいましたが、そののち、簡単にしまらないセイフティをつけた踏み台が普及して、女の子のような犠牲者は生まれにくくなったようです。

親が気をつけていれば、というのは簡単ですが、四六時中親が子供に目を光らせているのは不可能なものなのです。

子供に何かあると、すぐ親の責任を言及する人がいますが、注目するべきはそこではなく、どうしたらそういう事態が起こりにくくなるのか、という一点なのです。

もともと踏み台の設計が、使い手のうっかりを考えに入れて設計されていれば、事故は防げた、という観点もあるわけですよね。

階段の手すりも、引っ掛かりの少ない物が増えていると思います。


前述の防災訓練で火だるまになってしまった女の子たちを、見ず知らずの人が必死に消化して自分も両手にやけどを負っていました。

人間のうっかりを、もともとそういうことが起こらない用心を設備的にとると同時にまた、人間がフォローする、という気持ちも大事だと思うのです。

人にとやかく言うことは勇気のいることですが、危ない所にいる子供に一言声をかける、また、危ないことをしようとしている人がいたら、気づいていないかもしれません、ひと言注意してみる、というのも、自分にできる用心だと思っています。

もちろん、とやかく言われるのはみんな好きではないですから、反論されると思いますケド、たとえそうでも、その人を思いやってする注意は無駄ではないと思うのです。


なんだか最近、自分が小うるさいおばあさんになりそうだなぁ、なんて苦笑いするときがあります。

まだ先の話だけど!

だけど、迷惑がられつつ、元気で人のコトを注意できる溌剌婆さんも悪くないなぁ、なんて夢想します(笑)。