ずっと雨が降っている。

 

まとまった雨。警報級の雨。

 

 

小池都知事の休養に対して舛添要一氏が噛みついたというニュースを見て、ふと思い出したことがある。

 

舛添さんが都知事だった頃、私はこの人のことが苦手だった。なにしろ顔が怖い。戦国武将みたいな顔をしている。ためらうことなく何人も平気で斬り殺していそうな顔だ。だから、なんだかずっと怖い人だと思っていた。

 

小池都知事が今のタイミングで休養をとったことに対して舛添さんは、「戦国武将だったらありえない」というニュアンスで批判をしたらしい。それを知った私は、「あぁ、やっぱりこの人は前世が戦国武将だったんだ。だから戦国武将視点で考えて発言してしまうんだ」と、妙に納得したのだ。すっきりした。

 

 

 

 

先月、神社検定参級を受検した。在宅でのオンライン受検で、翌日には仮採点の結果が出て合格点に達していた。これはなかなか面白かった。神社や日本神話についてざっくりとした知識を学べる。年一回の試験なので、来年は弐級を受けてもいいかもしれない。

 

 

いまやっているのは漢字検定準一級の勉強。

過去何回か勉強を始めたものの難易度の高さに尻込みして毎回挫折している。いま使っているテキストも二年前に購入したものだ。今回は続けられそうな気がしている。

 

無料アプリのクオリティが意外と高い。

仕事の日はバスの待ち時間や休憩時間に少しずつ問題をこなしている。

 

二級を受けたときに四字熟語に苦戦したので、四字熟語の勉強から重点的に始めた。

 

普段使わない熟語ばかりだ。最初のうちは、テキストの見開きにずらっと並んだ問題が一問も分からないということも多々あって、ストレスが半端ない。でも、めげずに声に出して、実際に書いて、意味を覚えて、という作業を繰り返す。そうするといつの間にか、言葉が頭と体に馴染んでくる。自分の頭のなかの辞書に収まった、という感じがする。

 

 

 

小説も書いている。9月末が締め切りの坊っちゃん文学賞に最低2作は応募したい。1作はほぼ完成していて、少し時間をおいてから微修正をするつもり。4000字以内のショートショートなので、頑張れば月に2作は書けそうなものだが今の私には無理だろうな。

 

自分で書いてみると、自分の限界がよく見える。語彙力、文章力、物語の構成力。すべてにおいて未熟でガタついている。四方を限界という壁に阻まれて、その壁をコツコツと叩いて歩き回りながら、「さて、どの壁から壊そうか、超えようか」という作業の繰り返しだ。もちろん書くだけじゃなくて読むほうもやりたい。読書もしたい。

 

漢字の勉強をするのか、小説の勉強をするのか、どちらかに絞るべきなのかもしれない。でも、どちらもやりたい。どちらも言葉に関することであるし。先月までは神社検定の勉強もしていたので、それがなくなっただけでも少しは捗るだろう。

 

6月に入った。

 

5月は雨が多く、関東も早めに梅雨入りするかと思っていたが、最近は持ち直して良いお天気が続いている。

 

 

勉強することが趣味のようなもので、常に何かしら勉強している。

 

仕事や生活に直接役立てることが目的ではなくて、勉強している時間が好きなのだ。

 

集中している時間が好きだ。現実の面倒なあれこれをとりあえず棚上げにして、まったく関係のないことに集中している時間は尊いものだと思う。

 

いまは、神社検定3級と漢字検定準1級の勉強中。

 

神社検定はTwitterで広告が流れてきて知った。神社という場所は昔から好きなので、即受検申し込みをしてテキストを購入した。今月が試験。コロナということで今年は在宅でのオンライン試験なのも嬉しい。交通費をかけずに済む。日本の八百万の神というのは面白い。去年、放送大学で古事記についての講義を受けた。なかなか面白かった。こちらのテキストも時間があれば読み返してみようと思う。

 

漢字検定は2級を持っているので、次は準1級、そして最終的には1級の取得を目標にしている。まだ受検申し込みはしていない。準1級の勉強はいままでにも何度か手をつけているのだが毎回挫折している。2級と比べるとマニアックで、四字熟語や故事成語あたりは完全に未知の世界。問題集の見開き2ページ、何十問もある問題が一問も分からないということも珍しくない。「分からない」を潰していく作業に時間がかかる。やり始めてみれば面白いが、とにかく毎日続けないとすぐに忘れてしまって振り出しに戻ることになる。結局続かない。

 

とりあえず今月は神社検定の勉強メインで、漢字検定のほうは仕事の休憩時間などにスマホのアプリで勉強している。

 

 

 

最近みた映画の話。

 

 

●ライ麦畑の反逆児-ひとりぼっちのサリンジャー

 

 

アメリカの小説家J.Dサリンジャーの生涯を描いた作品。

 

短篇小説を書き始めた学生時代。恩師との出会い。職業作家となることを夢みて作品を出版社に持ち込むも、次々に断られてしまう。軌道に乗りかけたところで始まった第二次世界大戦。従軍中は戦争の悲惨さを目の当たりにしながらも物語を書き続けた。

 

売れっ子になるまでの苦悩、売れっ子になってからの苦悩、そして隠遁生活へ。

 

サリンジャーの作品は何年か前に読んだ。「ナインストーリーズ」と「ライ麦畑でつかまえて」。映画のなかで出版社側の偉い人達が言っていたように、よく分からない話だなというのが一番の感想だった。主人公ホールデンを理解することができず、消化不良で終わってしまった。今回この映画でサリンジャーについてのイメージが新たになったので、再読したら少しは分かるようになっているかもしれない。

 

サリンジャーの小説を読もうと思ったのは、アニメの攻殻機動隊を見たことがきっかけだった。近未来SF作品なのだが、笑い男事件という謎めいた事件が起こり、事件の鍵となるのがサリンジャーの小説だった。引用された小説の一節がとてもかっこよくて意味深で、とにかく読んでみたくなったのだ。

 

理解されない孤独、普通の幸せを幸せと感じられない孤独。

様々な孤独にさいなまれた挙句に隠遁生活に入り、以後は作品の出版を拒否。母国アメリカでも単行本化されていない作品がいくつもあるとのこと。出版はしないが、ひとり作品は書き続けた。未発表の作品には何が書かれていたのだろうか。

 

 

 

●ガーンジー島の読書会の秘密

 

 

こちらはイギリス映画だが、主人公が作家であること、第二次世界大戦前後のできごとを描いていることなど、ライ麦畑の反逆者と共通点が多かった。主人公が作家であること、という共通点については、私自身があえてそういう作品を選んで観ているということなのだけれど。

 

物語を読むだけでなく、自分でも書いてみたいという気持ちが突然湧き上がってきたのは去年のことだ。”人は誰しも一作は小説が書ける”という格言(?)のようなものがあるらしい。自分の人生経験をネタにして一作くらいは書けるということなのだろう。では、その一作を書いてみようじゃないかということで去年は生まれてはじめて小説を書いた。

 

小説と言っても4000字程度の短いものだ。その後も同じくらいの長さの作品をいくつか書いた。地方の文学賞や小説投稿サイトのコンテストに応募してみたが、どこにも引っかからなかった。当たり前だ。実力不足であることは自覚している。でも、意外と書けるものなのだなという発見はあった。

 

書き始める前は、最後まで書ききる自信が無かった。書き出しの部分は思いついても、後が続かないのではという不安があったのだ。

 

実際に書き出すと、ストーリー自体は常に頭の中で先に進んでいる感覚があって、それを追いかけるように文章化していく作業になった。この文章化の技術が圧倒的に不足していて、何度も立ち止まってしまう。ものすごい遅筆だ。書き方に悩んでいる間にも、物語に組み込むエピソードは頭の中に次々と浮かんできて、書き出しの時点では何も決めていなかったラストシーンもいつの間にかイメージが出来上がっている。

 

”頭の中にあるうちは何だって傑作なのだ”という言葉を何かの小説だか映画で聞いたがまさにそのとおりで、頭の中から取り出して文章にした途端にグダグダになり輝きを失ってしまう。そんなことの繰り返しだ。小説を書いていると、自分の限界がよく見える。

 

書くってなんだろう。文章ってなんだろう。そんなことを常に考えるようになった。きっと考えているだけではダメで、答えを見つけるためにはたくさん書いてたくさん読むしかないのだろう。作家になりたいかというと、それはまだよく分からない。生活が落ち着いてしまって、あまりハングリー精神もないし。

 

ただ、なにか目標がないと、生きている意味が無いような気がする。なんとなく生きているよりは、目標に向かって頑張っていた方が時間が経つのも早いし気分がまぎれる。短篇小説はいくつか書いたので、生きているうちに一作は長篇小説を書くということを人生の目標にしてみることにする。

 

 

 

●蜜蜂と遠雷

 

 

原作の小説を先に読んだのであらすじは知っていた。ピアノコンクールの話。実写で観ると迫力があって良かった。音楽は美しい。

 

原作がかなりの長篇なので実写化にあたって省略されるシーンが多いのは仕方ないが、原作を読んでいない人にとってはタイトルの「蜜蜂と遠雷」が意味不明かもしれない。遠雷の描写は一瞬だけあったが、蜜蜂はなかった。

 

栄伝亜夜を演じた松岡茉優の演技がとても良かった。彼女はバラエティ番組に出ているイメージが強くて、この役には合わないと感じていたのだけど、映画を観てみたらものすごく良かった。セリフの無いシーンの表情や佇まいが綺麗。

 

無人島で一人ぼっちだとしてもそこにピアノがあったら弾くか、という話が出てきた。同じような問いが、「ライ麦畑の反逆者」のなかにも出てきた。「ガーンジー島の読書会の秘密」でも、主人公が最後に書き上げたのは出版するための本ではない。演奏せずにはいられない、書かずにはいられない、それをせずにはいられない。

 

誰も見ていなくても、誰からも評価されなくても、好きだからやり続けたいことがあるというのは幸せなことだと思う。

外国の映画を観たい気分で、プライムビデオの字幕版映画の中から興味を惹かれたものを選んでいくつか観ている。

 

夫がAmazonのプライム会員なので、プライムビデオやプライムミュージックの恩恵に私も与ることができている。映画館に行かずとも、レンタルショップに行かずとも、家に居ながらにしてゆっくり作品を選んで鑑賞することができるのは素晴らしい。

 

私の父は映画が好きで、父の部屋には映画のビデオテープやDVDがたくさんあった。私が高校生の頃には、そのコレクションの中から父がお薦めしてくれたものをいくつか観せてもらった。面白いと感じるものもあったし、よくわからないと思うものもあった。わからないもののほうが多かったかもしれない。

 

映画を観るなら大画面・大音量で観たいという願望があったらしく、父の部屋にはリビングルームのものとは違う大画面のテレビがあり、専用のスピーカーも備え付けられていた。その空間で観る映画はたしかに迫力があったが、大人になった私は父ほどのこだわりを持つことができず、映画はもっぱらスマホで観ている。アクションが目玉の作品であれば映画館へ行くこともあるが、基本的にはスマホ鑑賞だ。テレビ画面で見ることもない。

 

映画だけではなくドラマもスマホで観ることが多くなった。Tverのアプリからみている。一つのアプリでいろいろな局の番組がみられるのが良い。いま継続してみているのは、「イチケイのカラス」「大豆田とわ子と三人の元夫」「コントが始まる」「ドラゴン桜」の4作品。

 

スマホの画面で観ることに慣れてしまうと、画面の小ささは少しも気にならない。いま使っているのはiPhone XRで、画質はそれなりに良いし、イヤホンをすれば音も悪くない。

 

たとえば小説だったら、視覚情報としては紙に印刷された文字だけで、聴覚は使わない。文字から自分の頭の中に映像をイメージしながら読むことはある。その場合も映像の解像度は低い。ぼんやりとしたイメージでしかなくて、解像度の低さを文字情報で補っている感じだろうか。文章の持つ響きやリズム。

 

とにかく、一度集中してしまえば画面の大きさはあまり気にならない。

 

最近では映画やドラマなどを倍速で視聴する若い人もいるようだが、これについてはいまいち理解できない。ニュースやドキュメンタリー番組なら良いと思う。これは、速読が実用書には向いているが、小説には不向きなのと同じ理由だ。行間が読めない。感情移入がしづらい。映像作品であれば、俳優はセリフのスピードや会話の間も考えて芝居をしているはずだ。木々が風に揺れているだけのシーンにも何がしかの意味はある。そこを倍速で飛ばしてしまうと作品の空気が台無しになってしまう気がする。

 

まぁ、あくまでもそんな気がするというだけの話。倍速視聴に慣れてしまえば、感情も倍速でついてくるようになるのかもしれない。生き物というのは環境に適応して進化するものだ。

 

 

 

 

 

コロナ禍である。

 

職場の同僚が時折「コロナうず」と言っているのだが、なにも指摘できずにいる。

 

このブログを放置している間に私生活に大きな変化があり、それよりもさらに大きな変化が世界レベルで起きた。新型コロナウイルス。いまや世界中の人々がマスクをして、見えないウイルスに翻弄されながら生活している。なんだか嘘みたいな悪夢みたいな世界になった。

 

私個人の感覚からすると、精神的にはそれほどダメージを受けていない。

 

苦しんでいる人がたくさんいるなかで不謹慎かもしれないけれど、生きやすい世界になりつつあるなと感じている。

 

良くも悪くも様々な常識が崩れてきている。

 

 

 

たとえば東京オリンピック。

 

東京でオリンピックが開催されると決定して日本中がお祭りムードの頃、私は少しも喜べなかった。スポーツ観戦には少しも興味がないし、海外からたくさんの人が流入することで混雑が発生することも嫌だった。当時の私の仕事はオリンピック開催を支援する立場の職種だったので、暑い季節にボランティアとして駆り出されることも目に見えていた。とにかく嫌で嫌で仕方なかった。わざわざ日本でやる意味が分からなかった。それが今では、オリンピック反対の意見が大きくなっている。いまさら後には引けないし予定通り開催となるのであろうが、国民感情としては歓迎モードではない。

 

 

 

週休3日制の検討がされていることも。

 

週5のフルタイムで働く生活を10年以上続けたけれど、少しも慣れなかった。どう考えても働きすぎだと思う。体力的にある程度慣れても、精神が疲れるし仮死状態となってしまう。週4労働くらいがちょうど良い。職場で議員への政策要望を書かされたことがあり、私は要望ハガキに「週休3日制」と一言だけ書いた。10年くらい前のことだ。それを見た同僚は鼻で笑った。

 

 

 

 

 

 

体調が悪いときは仕事を休むという空気ができたのも良いことだと思う。

 

少しくらい熱があっても仕事へ行くことが社会人の常識、という風潮が私は大嫌いだった。体調が悪い日は普通に休みたいし、体調が悪い人が職場にいたら迷惑だと思う。能率も下がるし、周囲に感染させるおそれもある。体調管理が社会人の基本であることは認める。仕事に支障をきたさないように規則正しい生活やバランスの取れた食生活を心掛けるべきだ。でも、規則正しい生活を維持するためには働きすぎてもいけない。働きすぎないことも体調管理の一つだと思う。

 

 

 

 

羅列し始めるとキリがない。

とにかく引き寄せの法則発動か?というくらいに、私にとっては生きやすい世界になりつつある。

 

どちらかというと体が弱くて30歳を過ぎてからは年に数回ほど高熱を出していたのだが、コロナ禍でみんながマスク生活になってからはずっと体調が良い。軽い風邪すらひいていない。マスクはかなりの効果があるのだと実感した。

 

どんな未来が待っているかは分からない。

 

ますます生きやすい世界になっていく予感はしているので、楽しんでいこうと思う。