川崎と練馬の事件が立て続けに起きて、ここ数日、大人のひきこもり問題がクローズアップされています。


へしこが思うこと、書かせていただきますね。



練馬の事件についてのコメントを見ると、殺害された息子さんではなく、息子を殺めた父親に対して同情的な意見が多く、何とも言えない気持ちになります。


父親の気持ちがわかるとか、責任感の強い親だとか。


「自分も同じことをしたかもしれない」という元政治家のコメントも出てました。



こういった意見の背景にある、ひきこもる当事者が悪い、親は被害者という考え方。

子どもの不登校を経験した親から見ると違和感しかありません。



それは、何があっても人を殺めるべきではない、とかそういう話ではないのです。


事ここに至る前に、親ができることはたくさんあったはずですが、このご両親はどんな風に息子さんに接してこられたのか、そう考えてしまいます。


44歳という年齢になって、親への暴力が続くのは、親への深い恨み、怨嗟を感じます。



不登校やひきこもりは親のせいではない、そういう言葉はよく聞きます。


親にとって耳障りの良い言葉ではあるけど、へしこは全面的には賛成できません。


へしこ家の場合がそうであったように、特に思春期以降の不登校は生育歴や親の接し方が影響しているケースは少なくない。


特に、親への攻撃性、閉じこもり、非行などが見られる場合は、ほとんどが家庭に何らかの問題を抱えているといっていいと思います。


幼い頃から積もり積もったものが、ある日突然、不登校やひきこもりといった形で顕在化します。


そして多くの親は、過去の自分を悔やみ、考えと子どもへの接し方を変えて、親子の関係を築き直していきます。


それはそれは手間ひまと時間もかかることだけど、子どもの自立のためには覚悟を持ってやり切るしかありません。



へしこは楽観主義者ではないので、不登校やひきこもりになった当事者全員が自立できるとは思っていません。


決してきれいごとではないので。
さまざまな理由で社会で生きていくことに困難さを抱える人がいるのが現実でしょう。


それでも親子関係のやり直しさえできていれば、完全にひきこもってしまったり、ましてや終わりのない暴力に苦しめられるようなことはない、とも思います。



不登校やひきこもりを身近で経験したことのない人から見ればとんでもなく甘い考え方としか思えないでしょうけど。


40才であろうが、50才であろうが、親が変わらずに当事者を変えることは難しい。


親が変わって、やり直し、子どもが一人で生きていけるまで見守り続けるしかないんです。


我が家の元不登校生も、大学生になってもまだまだ不安定、へしこに平穏が訪れるのはいつのことやら、先は見えず。


でも自分が産んだ子どもだし、不登校を招いたのも自分。


育て上げて、社会に送り出すのがへしこの責務です。



練馬の事件の父親について、「責任感の強い親」というコメントもあったけど、仮に責任感だとしたらあまりにもゆがんだ責任感だと思います。



大人のひきこもり問題が生易しいものでないことは百も承知です。

悩み苦しんでいる家族が多数いるのも現実で、そんな家族が繋がれる適切な支援の道が開かれた社会になること、待った無しの課題ですよね。



お読みいただきありがとうございます。