何年ぶりか分からないほどしていなかった、近所の散歩をした。
ルートは全く決めていなかったけれども、とりあえずなんとなく近所を歩いて、通学路を少したどってみたり、昔(小学生のころ)遊んでいたところを通過してみたりする。
見える風景は大きく変容していて、昔田舎で田んぼばかりだったところも、ちょこちょこと家が建っていた。
ただぼーっと散歩をしていたつもりだったけれども感じることはとても多くあった。
昔見ていた世界は、大きくて未知で無限に広がっているような感覚があったのと同時に、そうでありながら、その広がっていた先は全く想像できていなくて、視野が非常に狭かった。
にも拘わらず、その中で十分に満足して遊んでいたなと思い出した。
公園一つとってみても、当時小学生だったころは、タイヤが半分埋まってて(公園でタイヤがうまってる)その上をただ歩くことでさえ、いろいろなことを感じていたことを思い出した。
一つ一つのタイヤの硬さが違って、いきなり凹むものもあったり、子供一人の体重は支えてくれるタイヤがあったり、その上を歩く遊びでさえ楽しかったように思える。
また、滑り台の頂上は世界のてっぺんであるかのように思っていた。
公民館の屋根の上(昔は管理が雑で昇れた)は、まさに世界を見下ろしてるかのような感覚になっていたように思い出せる。
今では、タイヤはただのタイヤだし、こんなもので楽しめていたんだなぁという点で楽しむことはできるけれど、心の底から、(こんな言葉にするような感情でもなく)ただただ楽しむというのは難しいように思える。
滑り台の上にはもう手が届いた。多分高校生くらいのときから届いてたとは思うけれど、そこをすっ飛ばして改めて滑り台をまじまじと見てみると、なんとも、これがとても大きかったことが懐かしくもあり、そこからずいぶんと遠い所へと来たなぁという気がした。
公民館はすでに建て替えられていて、屋根の上にはのぼりようがないし、新しい建物になっていて、田舎には不釣り合いだなと苦笑してしまう。
子供のころ楽しめていたものはすでに楽しめないようになっていた。
仮に、楽しむとしても、それは、純粋な楽しみというよりは、懐かしいなぁという思いでの楽しみと化していて、感情が変化しているのは明らか。
とはいっても、それが悪いことだとは微塵も思わないし、当り前で、むしろ、今でもわいわいと無邪気に何も考えなしに楽しめるというのはそれはそれで気味が悪いとも思える。
子供のころと違って、こうして、感じたことをしっかりと言葉にできるようになった。
子供のころ感じていたことは、ただの内なる思いで、どこかへはじき出されることもなかった。けれども、今の自分は違って、さっきの1時間の散歩で感じたことをこうしてはじき出すことが出来る。
誰に見られるというわけでなくても、言葉として残すことができるようになっているし、言葉として表現するということを覚えたからこそ、あいまいでただ漠然と感じていたものを、形のある具体的なものとしてとらえるようになったというように考えられる。
その一方で、漠然とあいまいに感じていたからこそ、受け取れていたエネルギーのようなものもあったのではないかと思える。
形として残っていないなにかが確かにそこには存在したように思うし、それは、散歩を1時間してきた中にも絶対にった。
文字にしてすべてを表すことは、おそらくできないだろうし、こうして記載した文字を1週間後に読んだとしても、きっと今の感情を100%思い出すことは不可能に近い。
けれども、感じたことを書き留めなければさらに思い出すことの正確性は下がるに違いない。
100%を目指すのではなくて100%を目標になるべく近いものを目指すために、この記事はとりとめもなく、まとまりもなく書かれている。
世界が広くなったと思った。
知識量は当然小学生の時と比べて各段に多くなって、小さいときに感じていた、たとえば、空き地みたいなところの奥の林だったりは、子供からみると何か不気味なものでそこで遊ぶことが何か楽しいものといったような感情を抱いていたとはっきり思い出せる。
けれども、実際にその地を今日再び見て感じたのはそんなたいそうな感情ではなくて、ただのちっぽけな茂み、良く見ればその先にはまた空き地があったりするし、そんなに暗くもない。
昼間に行って暗いような地は田舎とはいっても、なくて、単なるちょっとした茂みで、林にも満たないというのが思ったことだった。
その地にいけば、そう認識できる。
けれども、今こうして記事を書いているときに、その地を思い出してみると、やっぱり昼間なのに暗くて、やたらと緑豊かで、上が見えずに太陽が見えないという情景が思い出される。
子供のころに何度も訪れたその地のイメージは、未だに消えずに残っているのだとはっきりと認識できる。
要するに、子供のころに感じたことというのは、なんだかんだといって、なかなか消えるものではないのだなと思うと同時に、深く刻まれた思い(もしくは、何重にも重なって抱えている思い)というのは、どこか思考のすみに入りこんで至りしているのだと感じた。
たぶん、その思考を払拭するには、何度も上書きしないといけない。何回も散歩してれば、そのイメージもどんどん上書きされていってなくなってしまうのだと考えると、少し物寂しくも思えた。
これは余談だけれど、子供の時と大人の時で、世界の大きさが違った、ということは、人間の思考には、身体の重要性が非常に強いということがある。
全身からくる感覚があるからこそ、思考が存在しうるのだと思えた。
つまるところ、脳みそだけでは思考は不自然なものになってしまうの危険性を考えた。
以上、とりとめもないメモ書き。
ルートは全く決めていなかったけれども、とりあえずなんとなく近所を歩いて、通学路を少したどってみたり、昔(小学生のころ)遊んでいたところを通過してみたりする。
見える風景は大きく変容していて、昔田舎で田んぼばかりだったところも、ちょこちょこと家が建っていた。
ただぼーっと散歩をしていたつもりだったけれども感じることはとても多くあった。
昔見ていた世界は、大きくて未知で無限に広がっているような感覚があったのと同時に、そうでありながら、その広がっていた先は全く想像できていなくて、視野が非常に狭かった。
にも拘わらず、その中で十分に満足して遊んでいたなと思い出した。
公園一つとってみても、当時小学生だったころは、タイヤが半分埋まってて(公園でタイヤがうまってる)その上をただ歩くことでさえ、いろいろなことを感じていたことを思い出した。
一つ一つのタイヤの硬さが違って、いきなり凹むものもあったり、子供一人の体重は支えてくれるタイヤがあったり、その上を歩く遊びでさえ楽しかったように思える。
また、滑り台の頂上は世界のてっぺんであるかのように思っていた。
公民館の屋根の上(昔は管理が雑で昇れた)は、まさに世界を見下ろしてるかのような感覚になっていたように思い出せる。
今では、タイヤはただのタイヤだし、こんなもので楽しめていたんだなぁという点で楽しむことはできるけれど、心の底から、(こんな言葉にするような感情でもなく)ただただ楽しむというのは難しいように思える。
滑り台の上にはもう手が届いた。多分高校生くらいのときから届いてたとは思うけれど、そこをすっ飛ばして改めて滑り台をまじまじと見てみると、なんとも、これがとても大きかったことが懐かしくもあり、そこからずいぶんと遠い所へと来たなぁという気がした。
公民館はすでに建て替えられていて、屋根の上にはのぼりようがないし、新しい建物になっていて、田舎には不釣り合いだなと苦笑してしまう。
子供のころ楽しめていたものはすでに楽しめないようになっていた。
仮に、楽しむとしても、それは、純粋な楽しみというよりは、懐かしいなぁという思いでの楽しみと化していて、感情が変化しているのは明らか。
とはいっても、それが悪いことだとは微塵も思わないし、当り前で、むしろ、今でもわいわいと無邪気に何も考えなしに楽しめるというのはそれはそれで気味が悪いとも思える。
子供のころと違って、こうして、感じたことをしっかりと言葉にできるようになった。
子供のころ感じていたことは、ただの内なる思いで、どこかへはじき出されることもなかった。けれども、今の自分は違って、さっきの1時間の散歩で感じたことをこうしてはじき出すことが出来る。
誰に見られるというわけでなくても、言葉として残すことができるようになっているし、言葉として表現するということを覚えたからこそ、あいまいでただ漠然と感じていたものを、形のある具体的なものとしてとらえるようになったというように考えられる。
その一方で、漠然とあいまいに感じていたからこそ、受け取れていたエネルギーのようなものもあったのではないかと思える。
形として残っていないなにかが確かにそこには存在したように思うし、それは、散歩を1時間してきた中にも絶対にった。
文字にしてすべてを表すことは、おそらくできないだろうし、こうして記載した文字を1週間後に読んだとしても、きっと今の感情を100%思い出すことは不可能に近い。
けれども、感じたことを書き留めなければさらに思い出すことの正確性は下がるに違いない。
100%を目指すのではなくて100%を目標になるべく近いものを目指すために、この記事はとりとめもなく、まとまりもなく書かれている。
世界が広くなったと思った。
知識量は当然小学生の時と比べて各段に多くなって、小さいときに感じていた、たとえば、空き地みたいなところの奥の林だったりは、子供からみると何か不気味なものでそこで遊ぶことが何か楽しいものといったような感情を抱いていたとはっきり思い出せる。
けれども、実際にその地を今日再び見て感じたのはそんなたいそうな感情ではなくて、ただのちっぽけな茂み、良く見ればその先にはまた空き地があったりするし、そんなに暗くもない。
昼間に行って暗いような地は田舎とはいっても、なくて、単なるちょっとした茂みで、林にも満たないというのが思ったことだった。
その地にいけば、そう認識できる。
けれども、今こうして記事を書いているときに、その地を思い出してみると、やっぱり昼間なのに暗くて、やたらと緑豊かで、上が見えずに太陽が見えないという情景が思い出される。
子供のころに何度も訪れたその地のイメージは、未だに消えずに残っているのだとはっきりと認識できる。
要するに、子供のころに感じたことというのは、なんだかんだといって、なかなか消えるものではないのだなと思うと同時に、深く刻まれた思い(もしくは、何重にも重なって抱えている思い)というのは、どこか思考のすみに入りこんで至りしているのだと感じた。
たぶん、その思考を払拭するには、何度も上書きしないといけない。何回も散歩してれば、そのイメージもどんどん上書きされていってなくなってしまうのだと考えると、少し物寂しくも思えた。
これは余談だけれど、子供の時と大人の時で、世界の大きさが違った、ということは、人間の思考には、身体の重要性が非常に強いということがある。
全身からくる感覚があるからこそ、思考が存在しうるのだと思えた。
つまるところ、脳みそだけでは思考は不自然なものになってしまうの危険性を考えた。
以上、とりとめもないメモ書き。