美祢市伊佐待ちの南西にあたる連山の一つ、桜山に南原寺があるがかつては「難波羅寺」といったという。寺伝によると、聖徳太子は仏教を広めるため、諸国の聖地を選んで四十六ヶ所に寺塔を建て、1300人の僧尼を派遣したとされ、ここ桜山の難波羅寺もその一つであった。
イメージ 1

 花山法皇が難波羅寺中興の人といわれ、この地で無くなったと伝えられている。すなわち、花山法皇が西国遍歴の旅に出て、当寺に立ち寄ったのは御齢24歳の春であったという。当時の難波羅寺は堂塔荒廃し、昔日の面影はなかった。法皇はしばらく桜山に足を止める決意をし、再興を発願して、3、4年ののちには昔に劣らぬほどの隆盛におもむいていったという。そして、この桜山御滞留には、いま一つの事情があった。それは尼僧の中に、かつての愛妃のおもざしに似た美祢という女性がいて、昔の日の想いなつかしく心引かされたがためという。

 しかし、ここでも美祢尼が不慮の出来事で世を去ったので、法皇は桜山を下りてまた遍歴の旅へと
向かったが、その晩年には再び難波羅寺を訪れ、美祢尼供養のために十一面観音像を刻んで
納め、この美祢尼がねむる想い出の地で、大往生をとげたといわれる。

 今も裏山には、花山法皇を葬り祀るといい伝えられる御廟がある。
イメージ 2

 こちら、ご住職に寺内を案内していただきました。歴史の勉強にもなりましたよ。