正徳五年(一七一五) の夏のこと、西久米村の百姓喜兵衛が田の帰りがけに、万役山で松の木一本切り取ったところ、徳山藩の山回りの足軽が見とがめて口論となり、喜兵衛はその場で斬り殺された。
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 万役山とは今の周南市遠石町の北、昔は萩宗藩領西久米村と支藩の徳山領との境にあって、西久米村では墓ノ尾山といい、徳山領では尾崎山と呼んでいた。萩・徳山いずれの領分としても、わずかばかりの出入りがあるに過ぎなかった。
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 しかし、萩・徳山両藩ともにゆずらず、萩では悶着の解決を幕府に求めたので、ついに徳山藩は改易という不運にたちいたった。このとき、奈古屋里人という人物がお家再興の嘆願運動を指導し、三年にわたる臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の忠誠は報いられて、ようやく宿願がかなえられたという。

 この「徳山版忠臣蔵」ともいえる中心人物、奈古屋里人とは仮の名で、その本名はさだかでない。

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