「今ぞしる身もすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは」
と、胸に抱く八歳の安徳天皇にささげた二位尼の辞世の歌を最後に、平家と運命をともにされ、壇ノ浦に入水された幼帝の御遺骸は、「先帝ついに浮ばしめたまわず」『吾妻鏡』と、源氏のねんごろな捜索にもかかわらず「行方知れず」(『醍醐雑事記』)となったが、伝説によると、海戦の翌日、下関の伊崎町一帯に住む中島という漁師の一族が丸太船四隻に分乗し、小門の海峡に四尋網をしかけて漁をしていたところ、その網に幼帝の御遺骸がかかったので驚き引き上げて葬ったのが、壇ノ浦を見下す景勝の地、紅石山の麓、阿弥陀寺の境内であって、ここに御影堂が建てられたが、のち、明治に至って阿弥陀寺は廃寺となり、安徳天皇を祀る赤間宮が創建されたのであって、その境内地御影堂が廃されたあたりが安徳天皇阿弥陀寺陵になっている、といわれている。
 
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昔は参拝ができたのかな?周囲は高い壁に囲まれています。
 
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隙間からみると、安徳天皇阿弥陀寺陵と刻まれた石碑、鳥居、少し盛り上がった土に石のようなものが見えます。
 
豊田湖にあった安徳天皇陵にあった宮内庁の看板がありません??
 
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