大内氏二十四代弘世は、周防・長門 石見三カ国の守護職となり、居館を出日に設け、その成勢は中国にとみに高まった。潮廷より陽禄門院三条氏という美女をその夫人として賜わるはど、朝廷の覚えもよかった。しかし、都人である夫人にとっては山口はさびしく、都をなつかしみ、自然、とじこもりがちであった。
 
弘世はこのありさまを見て、なんとか夫人を慰めたいものと、はるばる都より多くの少女を迎えて夫人の左右にかしずかせ、また、都風俗の人形などをかずかず取り寄せて一室に飾ったりした。この人形を集めた夫人の部屋を、当時の人たちは人形御殿と呼び、大内氏居館内の一異彩となり、弘世・三条夫人の名とともに、人形御殿は三十一代義隆のころまで存続して有名であった。
 
ところで、応仁の乱によって都は廃墟と化し、都の公卿措紳おょびこれに従う有職の心得ある細工人たちは、多く山口へ難を避けた。彼らもまた都懐しのつれづれに、人形御殿の人形をなぞらえ、これに地方色も加えたいわゆる大内人形というものをつくって、せめてもの慰めとした。そのどれも、都風のみやびやかさのなかに、豊かな郷土色が含まれていて、気品の漂う愛らしい人形であったので、人形御殿拝観者は、記念として譲りうけて土産とした。それがいつか城下の業ともなり、土産品として市販されるようになったもので、これが今日も見られる大内人形の起源であるという。
雅な模様でかわいいらしいです。
 
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