萩城石垣築造にあたって、その作業能率を上げるため、工事監督を益田元祥と天野元信とに分担して命ぜられたが、その結果、ついには互いに竣工を競い合うようになった。そのため、益田配下の人夫三人が、天野の工事場に属する五郎太石を、夜陰にまぎれて盗むという事件が起こった。

五郎太石とは、石垣の大石と大石との間に楔として用いられる小形の石である。これがたまたま発覚、表沙汰になったので、益田氏はやむなく件の人夫を斬首して誠意を示した。しかし天野氏は、親戚で築城総宰の熊谷氏を後楯に頼み、あくまでも五郎太石の返還を迫るというふうで果てしのない紛争となり、ために築城工事がニカ月も遅れる事態となった。

怒った藩主毛利輝元は、益田氏の処置を不問とし、一方の熊谷・天野両一族だけを討ち果たしてしまったのである。世にいう「五郎太石事件」であるが、これには熊谷・天野両氏がキリシタン信者であったことから、五郎太石事件を口実にして討ち果たしてしまったものともいわれている。
 
指月公園にある萩城址の石垣です。
石垣には大きな石と石の間に小さな石がありますね。
 
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