チャイコフスキーは、交響曲第5番から記譜のスタイルが変化する。

それまでよりダイナミックの表記が多くなり、起伏の指示も多くなる。音価の表現も細かくなり、速度表記にも細心の注意を払い始める。第2楽章の表記「Andante cantabile,con alcuna licenza」はその最たるものであろう。

これらの突然の豹変には、チャイコフスキーの神経質な性格が反映されているなどの憶測もできるが、一つの仮説として、ある体験が彼にこの書法をもたらしたと考えることができる。

1887年12月24日にチャイコフスキーはライプツィヒのゲヴァントハウスで指揮者デビューしている。このときライプツィヒには多くの作曲家がおり、チャイコフスキーはグリーグ、ライネッケ、R.シュトラウス、ブラームス等と会っている。ブラームスとは気が合わなかったそうだ。

そして、当時のライプツィヒにはマーラーも滞在しており、チャイコフスキーと会っている。ライプツィヒ駅から西方さほど遠くないところ、中心地の北側にマーラーが滞在していた家が残っている。






私が撮った写真のため、映像がボヤけているが、マーラーが交響曲第一番を執筆した家であることが記されている。

第一交響曲は1884年にカッセルで着手、1888年にライプツィヒで完成、1889年にブタペストで初演されている。とすると、チャイコフスキーはマーラーの家を訪れ、完成間近の細かい指示の入ったスコアを見たかもしれない。

チャイコフスキーはこの時期創作に行き詰まっていたと言われている。そんな中たくさんの作曲家と出会い新たな発想を得、それが交響曲第5番に反映されていると想像できる。その中にマーラーの記譜のスタイルも影響を与えているのではないだろうか。

とはいえ、マーラーの作風がチャイコフスキーの音楽に影響を及ぼしているとはあまり考えられない。穿った見方をすれば、広い音程の2音の反復が聴かれることと、舞曲の楽章がワルツの系統であることに共通点を見出すことはできる。しかし、チャイコフスキーの音楽自体はマーラーに感化されてはいないと思われる。

チャイコフスキー自身が第5交響曲を「作り物の感がある」と言ったと伝えられている。様々な影響を統率できなかったとの思いもあるだろう。しかし、マーラー風の記譜法が細密であるあまり、奏者の自発的な解釈や表現への意欲を失わせていることも一つの要因ではないかと考えた。書かれていることが多いと、書いてあることはするが、書かれていないことはしてはいけない、ということにもなりかねない。奏法の指示を極端に表現してしまい、適切な表現の落とし所を探ろうとしなくなることも起こるであろう。奏者側の怠惰と言ってしまえばそれまでだが…

1892年、チャイコフスキーはマーラーとハンブルグで出会う。先ほどのライプツィヒ来訪の折にハンブルグでも成功していたチャイコフスキーはオペラ「エヴゲーニ・オネーギン」を指揮するためにやって来た。しかし、レシタティーボがドイツ語であるために上手く指揮できず、当時の劇場指揮者であったマーラーが代役を務めた。チャイコフスキーはその指揮ぶりに感激したそうだ。

改めてマーラーの第一交響曲を見てみると、様々な指示が譜面上に散りばめられている。これに比べればチャイコフスキーはさほどではないと思う。しかしながら、マーラーのスコアにはmpがない。伝統的なダイナミックのありかたを受け継いでいることがわかる。チャイコフスキーの第5交響曲ではmpは様々な場所で散見される。この点ではチャイコフスキーのほうが微妙な表現やバランスを気にしていたのかもしれない。

チャイコフスキーとマーラーの意外な接点は研究の余地があるのかもしれない。