第4楽章は、温暖なヤルタに移住し、病と闘いながらも、生への希望を輝かせるカリンニコフの心情が描かれている。


この楽章の構造は循環様式を含み複雑であるが、主部とそれに匹敵する大コーダによる構成とみることができる。


♪第1楽章冒頭と全く同じ音楽がフォルテで提示される。すぐに半音階フレーズが現れるが、リズミカルになり、快方へ向かうかのように高揚し、明るい舞曲調の第4楽章の第1テーマを導き出す。

これはすぐさまクラリネットの第2テーマに引き継がれる。第1楽章の第2テーマの余韻がフレーズの抑揚に残っている。南国の穏やかな陽光の雰囲気があるが、半音階が現れるところが一筋縄ではいかないところか。旋律のシメには病と闘う意気を表すかのような勇ましいフレーズが付けられている。


♪再び半音階フレーズ、第1テーマを奏すると、展開部に入る。

第2テーマが主に扱われるが第1テーマも少し展開する。常に活力を保ちながら進んでいく。南国での療養生活を描いているかのようである。

そして突然、第1楽章第2主題がテンポを変えて現れる。以前の熱望を回想するようである。この楽章の動機がオブリガートとなり、第3楽章トリオの民謡も顔を出し、回想シーンを演出する。


♪また突然に第1テーマが現れるが突然の半終止で音楽が途切れる。急に容態が変わったかのような緊張感。しかし転調して第2主題が緩やかな伴奏で現れる。天国を表すホ長調であり、意識が朦朧としているが快感のある状態を表わしているのかもしれない。

すぐに勇ましいフレーズで夢から覚め、第2主題の重層的展開を経て、第1テーマのモチーフの繰り返しに入る。




♪このあたりを集結部(コーダ)の入り口とするといいだろう。第1テーマの動機反復は長いクレッシェンドを形成して、クライマックスに達する。時間を2倍に引き延ばした第1テーマを金管が奏し、古典的な走句を高音楽器がそれに重ねて走り回る。マーラー交響曲第5番の終楽章のクライマックスと同じ響きである。

同じく病と闘いながら死生観を作品に表現したマーラーの作品にカリンニコフは対峙したことがあったのではないかと推測させる。

突如このクライマックスは断ち切られ、再び半音階のフレーズが現れるが、それほど力を持たない。ここで第2テーマが太い線で描かれて、大胆なデフォルメをして第3楽章トリオの民謡を導き出す。

これが完全に鎮まると、第1テーマの動機反復が再帰してクライマックスを作る。今度は途切れずに第1テーマに基づく力強いフレーズが続き、息切れしそうになりながら上り詰め、頂上に至り、第2楽章の神の主題を高らかに歌い始める。




♪この第2楽章の再現からをコーダの後半ととらえてよいだろう。第1テーマの動機が高音楽器で繰り返される。

ここでは、第2楽章の調である変ホ長調で現れる。再帰感を出すと同時に、主部との遠隔感も出ている。神は現れたがまだ近くにはいない(あるいは自分の本懐とはなっていない)ようだ。

このような「偽のクライマックス」はマーラーの交響曲では良く使われる構成効果である。最終のクライマックスとの比較で遠近法的効果を得ることが出来る。



♪またしても突然に咳込むようなアタック音をもつフレーズが現れ軽快な音楽となり、第3楽章トリオの舞曲の再現となる。

ヤルタには旧友なども訪れていたようだ。故郷を想うことで、自己のアイデンティティーを確認し、それを生きる力の支えとしていたのだろう。

ロシア的な音楽が激しく展開されて、ついに最後の大クライマックス、第2楽章の再現に至る。


♪第2楽章の神のテーマは金管で壮大に現れる。これにはトライアングルを伴って高音楽器によって第1テーマの動機が執拗に繰り返される。そしてそこにも神のテーマが歌われるようになる。


ついに、神と自己とを繋ぐことにより生きることの本懐を得たのであろう。圧倒的な力を得て音楽は歓喜の響きのうちに終わる。



この交響曲を俯瞰すると、カリンニコフ自身の自叙伝としての表現を強く感じることとなった。

苦境におかれた人間の諸相を写しながら、精神的支柱を支えに希望を失わず力強く進む様は、大きな災害だけでなく、あらゆる面で苦境を目の当たりにする日本にあてはめて、我々の活力のよりどころとすることも出来るだろう。