習志野シティフィル第55回定期演奏会の指揮を無事終えた。

交響曲はいろいろな試みをして一定の効果はあった。派手さはなかったかも知れないが、虚飾を排しながらも情感は残ったと思う。

前半2曲もしっくりまとまったと思う。テンポもいろいろ試行錯誤したが、よきところに収まった。


アンケートをみて、私が指揮棒を持たないことについてどのような思想があるのか、との質問があったので、その経緯(簡単なものだが)と思想について述べてみよう。


いつかは忘れたが、習志野シティフィルの本番前ゲネプロのときに、指揮棒を落としてしまい、手で振りつづけた。

そのとき、急にオーケストラの響きが変わったのを感じた。柔らかく肌触りの良い優しい音になった。

そのときの本番は指揮棒を使ったが、そのときから、指揮棒の効果について考え、それ以来使っていない。



(ここからは私の指揮棒に対する個人的見解です。使用する方々を非難するものではないことを予めお断りしておきます。)


私がまず思ったのが、自分が演奏して指揮を見るとき、指揮棒を見ていない、ということだ。むしろ腕のしなやかさ、挙動の速さ、顔の表情、視線、下半身の躍動からくる体全体のリズム感、それらを総合して現れるオーラのようなものを感じて、演奏につなげている。

指揮棒に注視していると、これらを見ることができない。アンサンブルに苦労している学生に指揮棒を見ないことを教えると、周りの音や奏者の動きや指揮者の意思に注意が向いていくこともある。


指揮棒を腕の延長線上に伸ばす場合、腕を振り下ろし、止めた時点では、指揮棒の先は惰性運動を続ける、結果として自分の意図した拍点に遅れて指揮棒の静止点が視覚認知されることになる。

クライバーは手が動いた軌跡を指揮棒で表現する。これは演奏者から見るとキロノミー的な動きが解りやすい。

つまりは指揮棒は打点を作るためには使わないほうが、誤解を生まないのではないだろうか?

翻って、打点が見えるとアンサンブルは硬直し、表現の拡がりが失われる。私は「拍点」という概念は譜面の説明には適しているが、演奏においては「拍面」と表現できる概念を用いている。これは「アンサンブルにおける標準偏差」の考え方につながるが、この考えはいずれ述べよう。



指揮棒を持つと、指の形が固定・制限される。これにともなって腕の動きにも、固定と制限が生まれる。

古武術では指の形で腕の機能を絞り込む。例えば手の形を狐にすれば、上腕と胴の間の挟みつける力を強くできる。指の形によって腕は稼動域が変わるのである。筋肉は関節を越えて付いている(でないと意味がない)ので考えれば当然である。




棒状のものを持つて自然に振る場合、肩から上と下では腕の使い方は異なる。自動販売機のコインの入れ口が高さによって、縦横があるのと同じである。

これに逆らって一定の動きをすれば体を壊す。逆らわなければ腕の動きと棒の表す軌跡は異なる。

ちなみに弦楽器の弓の動きは肩から下で主に行われるので、前腕の骨の動きに無理がない。肩甲骨と鎖骨の自由度を高めれば意思が伝わる動きとなる。




音楽の情感や音の表情を表現するとき、手の表情は雄弁である。それを指揮棒を持つことで奪われてはいないだろうか?

拳を作れば、腕を大きく動かさなくても、力のこもった音になる。手刀を動かせば、切れ味がある音を表現できる。指を細かくピアノを弾くように動かせば、細かい動きを明確に演奏して欲しい意図が伝わる。


よほどの訓練をしない限り、指揮棒を振ると「指揮棒の質感の音」がする。私は指揮棒をうまく動かす技術を体得するよりは、説得力ある体動を身につけたいと考えてきた。




もうひとつ、指揮棒をもっていると、それを落としてしまい、演奏に支障が出る恐れがある。少なくとも私が持つといつ飛んでしまうかわからないので、演奏者の身の安全のためにも持たないでおこう(笑)