ベートーヴェン・モーツァルトなどの作品のブライトコプフの旧いパート譜とベーレンライターのスコアを検討していると、編者がいろいろ加筆をしていることが、よく解る。

もちろん、演奏の実践に際しての当時の流儀が加わっているのは、発行当時は良いことであったと思う。それがなければ伝承できないものもあるだろう。

パート譜のなかに見える些細なことから、出版に関与した人達の思いを推理するのは、想像力を掻き立てられて面白い。

ベートーヴェンの交響曲第7番を習志野シティフィルで検討しながら練習してきたが、その過程で考えたことがある。



よく、パート譜のなかで、ほとんど同じ音楽が違う場所に現れていて、アーティキュレーションが異なって記載されていることに出会う。

音楽的に意味があることもあるが、基本的にはどちらかに統一してもよいことは多い。

こういった場合、もしかすると一方は編集者の思惑が入ったもので、もう一方は原典に従ったものなのではないか。



編集者としては、全て変えてしまっては元が解らなくなると考えて、ヒントとして曖昧な部分を残す、ということを施すこともあるのではないか。


旧くはバッハがクリスマス・オラトリオに書いたように、最初にだけアーティキュレーションを施して、あとは奏者の判断に委ねるという例もある。


ベートーヴェン交響曲第7番では、第3楽章トリオの木管パートでスラーが2通り見られたりしていた。

これは、一方はベーレンライターに則っていた。しかし、採用すべきはもう一方のほうで、現代の演奏家が素直にそれを演奏することで、古典の記譜の慣習を翻訳したものとなると考えられた。詳細は習志野シティフィルHPに載せる。


おそらく、こういったケースでは解釈を加えたものを最初に記して、後で同じものが出てきたときに、原典のままを「何気なく」書いているのではないか。

推理できる人がいることを想定したある種のいたずらとも言えるだろう。これを解らずに差をつけて演奏してしまえば、編者の術中にはまっていることにもなるだろう。



他社の版をコピーして出版する場合に小さな箇所をわざと間違えた音符にすり替えて版権をすり抜けようとしたようなミスプリントはよく見かける。これも気をつけなければいけない。



翻れば、ベーレンライター版など原典版といえども、鵜呑みにせず、推理をはたらかせて、何がその異同を生み出すのかを検討して、演奏の効果を得られるものを採用すべきだろう。


後世の編者が気をきかせてくれたもので、今でも使用価値のあるもの、あるいは当時のスタイルを感じるものは、うまく使っていくと譜面の奥行きを感じさせる演奏となるだろう。

ベートーヴェン交響曲第7番では、原典にはない弦楽器のボウイングスラーに編者のスタイルを感じることが出来た。検討した結果、意外とそのまま採用できるものがあった。演奏実践の裏付けから補足したものであると感じられた。