さりげの日記 ブログ「さりげなく」  エッセイ「さりげなく」 -2ページ目

   さりげの日記 ブログ「さりげなく」  エッセイ「さりげなく」

「さりげなく!」をテーマにした随想&俳句日記です。
言葉と、その表現方法は誰にとっても永遠の課題です。
みなさんとコミュニケートしながら、チャレンジ!

《人びとを公平に取扱うことと、人びとを平等たらしめようと

することとの間には天地ほどの違いがある。

人びとを平等に取扱うことは自由な社会の条件であるのに

対して、人びとを平等たらしめようとすることは、トクヴィルの

述べたように、「隷属の新しい形態」を意味する》 ハイエク

 

ハイエクの宗教観

自身《死を恐ろしく思ったことがない》《私には神経が欠けて

いるのです。これは母からの遺伝だと思います》と語り、

《両親は、形式的には先祖以来のローマ・カトリックを離れる

ことはなかったが宗教上の信仰心は持っていなかった》

《日曜のお出かけとぶつかる時には、私たち子供はミサに

出席しないで済ませた》

《私個人に関する限り、他者が神と呼ぶものの存在を否定も

肯定もする資格がないと感じている》

《われわれが民主主義者であるのは、多数がいつでも

正しいからではなく、民主主義の諸制度が、民主主義の

伝統に根ざしている場合には、われわれの知るかぎりで

もっとも害が少ないからです》 ポパー


ポパーは伝統を、尊ぶ。

《政治的な自由それ自体は、伝統によって、つまり、それを

擁護し、そのために闘い、そのために犠牲を払うという、

伝統に由来する覚悟があることによってのみ、保障されうる

のです》

ポパーの講演はつづく。

《人口密度の高い国家において、法の支配がなければ、

恐怖の支配がそれに代る他ありません》

講演の最後に、日本の教育者と「マスコミ、特にテレビに

関わる人々」を名指して、こう訴えた。

《子供を道徳性に向かわせること、自己規律と責任感・

義務感を養うことに努力しないと、子供を駄目にしてしまう

でしょう。/私たち西洋の自由イデオロギーが私たちを

誤らせたのは、まさしくこの点です。私たちはそのために、

大きな困難に引きずりこまれています》


これが、ポパーの「日本の皆様に贈る、教育に関する遺言」

なった。

「英米法の概念である『法の支配』は、大陸法の

『法治主義』とは、似て非なる大原則である。わが国で、

しばしば両者が混同だれているが、日本に必要なのは

前者であって、後者ではない。

法の支配こそ、正統的な保守思想の大看板である。」

  潮 匡人著「日本人として読んでおきたい保守の名著」



維新の橋下共同代表は、弁護士で、立憲主義者であろう。

『法の支配』は、「立憲主義以上のもの」であると明言した

のはハイエクである。その上で 


《民主主義のもとでは、それが共同社会の道徳上の伝統、

多数の人が共有し問題なく受けいれる共通の理念の一部を

形成しないかぎり、法の支配は普及しない》と警鐘を鳴らす。



ポパーの日本での講演(1992)



《民主主義とは『民衆の支配』を意味します。信じ難いこと

かも知れませんが、この名前自体が重大な誤謬ゴビュウ

源泉なのです。(中略) ここに、政治的義務より政治的

権利を強調するという重点のすり換えがあるのです。

そればかりか生徒たちは(中略)独裁制下に生きた経験が

なく(中略) 無責任状態の生活がどのようなものかを

知らないのです》


講演で強調されたのは、「自由」と並ぶ、保守思想の柱

である「法の支配」である。