自分がふられた女が別の男と腕組みしてるのに
鉢合わせたらどうするだろうか・・・


谷駅の雑踏ということもあって、見て見ぬ振りをした。
そのまま電車に乗って、苦しくなった。
俺は、ふれたときと相も変わらず臆病者のままなのか、
変わりはしたがデート中の相手を慮って
黙って知らぬ振りをしてあげたのか、
どっちの自分にも自信が持てない。

ただ一つ言える。
好きだった女が別の男とイチャついてるのは、
人から聞けど、この目で見たくはない。

それがもし、
ひさしぶりなんだから、軽く挨拶を交わして
爽やかに別れるのがかっこいい男なのに、
なんて言われたら、
俺は深々と頭を下げてお断りさせていただく。

ふられた過去は乗り越えられない。
ふられた過去は塗り変わりはしない。
今どれだけ別の好きな人がいて、
互いに大切にし合っていたって、
その自信とふられた女に対する自信とは別ものだ。

へと向かう電車のなか、
俺は自分の変わらぬ不甲斐無さを
非難されてるようでいたたまれなかった。

2年経っても何も変わっていないのか。
そうなのか。どうなのか。
窓の外を見てうなだれる。

じゃあ、こんな俺と今つきあってる彼女はどうなんだ。
こんな考えは彼女に対して失礼じゃないのか。
いや失礼とか失礼じゃないとか、そういう問題じゃない。
うなだれてる場合じゃない。

同じ後悔を繰り返さないためにも、
今できることをがんばらないといけないのだ。
めんどくさい、気が進まない、なんていってる場合じゃない。
臆病者の自分と今も一緒にいてくれてる人に、
このままでいいのか、楽をしていていいのか。
相手がしてくれない、なんて言い訳をするな。
ギブアンドテイクなんて呑気なことをいってる場合じゃない。
自分がするか、しないかだ。
相手にしてあげたいのか、してあげたくないのか。
無根拠からこそ、何かしてあげるべきじゃないのか。
今までしてきてもらったじゃないか。

う思ったなら、善は急げ。
ご都合主義だといわれても構わない。
二度と、今日みたいに大切な人から目を反らすことがないように。
過去を消すのではなく、今この瞬間に心を注ごう。
必ず向けてみせよう、今日とは逆の方向に。
~MOVIE'S KNOCKOUT!~

■本日の映画
   ー「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(監督:ラース・フォン・トリアー)


ルールがどうだとか、システムがどうだとか、
自分を囲む環境に文句をつけるのではなく、
環境の中で楽しんで生きる。
環境を肯定するのではない。
環境がどうであれ、どこであれ、
自分は生きていける。
楽しく生きていこうとする。
前向きに生きていこうとする。
その姿勢を描ききったのがすごい。

正直なところ、主人公の状況は
直視できるようなものではない。
考えないようにして生きていきたい現状。
盲目、無職、そして息子の盲目。
さらに殺人、死刑。

善悪とか哲学とか思想とか
仰々しいことを考えることもできるし、
実際、考えなきゃいけないんだけど、
それどころじゃない。
ただ目をそらしたい私がそこにいる。

で、映画はと言えば、
小難しい問題には深入りせず、
しかし皮肉が入る訳でもなく、
淡々と進んでいく。
だから、本当にそれでいいの?
描いてて何も思わないの?
って突っ込みを入れたくなるけど、
監督の視点はそこにない。
しっかりと別のところを凝視している。

状況がなにであっても
空想で人はやっていける。
いや、やっていけると信じたい。
そういう希望が至る場面で感じられる。
死刑という制度を変えてしまうのではなく
死刑から受ける印象を変えてしまえばいい。
死刑の感じ方を自ら変えてしまえばいい。

確かに死刑は、
主人公にとっては苦痛だし、制度自体は残酷だし、
それだけのことをしたから仕方ないとも思えるし、
いろんな印象や意味が、
マスコミや歴史や時代によって、
予め私たちには与えられてしまっている。
それは、自分が培ってきた十数年来の考えなんかより
よっぽど強力で、無抵抗に受け入れざるをえないけど、
だけど、それは強制じゃないはず。
死刑をどう捉えるかは自分でどうしてもいいし、
実際、どうにでもなるはずだ。
そして、そのどうにでもすることによって、
人生や日々の生活や人間関係やわずか一日が、
なんか前より、人より、よくなったりするんじゃないか、
っていうことを感じてほしかったんだと思う。

終始ミュージカルのシーンは、
固定カメラでしかもフィルムの質を
落として撮っていた。
おそらくそれは、ミュージカルっぽさを
出そうとしての演出だとは思うけれど、
そしてミュージカルのシーンとの対比で、
物語のシーンはドキュメンタリーのように
手持ちカメラで撮って、手ぶれさせていた。
二種類のシーンを敢えて撮り分けることで、
主人公の空想世界と現実世界を切り離して描いていた。
だからミュージカルは楽しそうだけど
あくまで彼女の空想の世界なんだ、
ってことが見ている人にもわかる。
にもかかわらず、最後の絞首刑のシーンだけは
フィルムを変えず現実世界の延長として撮っている。
主人公本人しか歌を歌わないし、
周囲の人間が巻き込まれることはない。
ミュージカルは始まらない。
周囲の人間は至って冷静だ。
つまり、彼女はそれまで現実ではどうしようなく、
しかし心は強く持ってがんばりはしていたけれど、
楽しむのは空想の中だった。
それが、自分の心が強くないことに気づいて、
空想の発想を、ミュージカルの発想(それが彼女にとっての
世界の自らの解釈の仕方なのだ。)を、もちこむことになる。
けれど、主人公が現実への適応をはかった瞬間、
死刑は執行され、現実は彼女に対しても平等に無慈悲なのだ。

ラストシーンの監督による
「これを最後の歌にしないのは私たち次第なのである」
という一言によって、
どちらか一方に軍配が上がることなく、
互いにギリギリの足場を保ちながら、
この作品は成り立ち、私たちを感動させる。
見終わった後に、これはこういうことか、あれはああいうことか、
といった哲学的な解釈を許さない点で私の好みではないが、
これこそまさしく映画ができることの一つなんだろうなぁ、
と思わされたことは否定できない。

☆☆☆☆☆☆☆☆★★

奥さん、今日ね

中央線に乗ってたのよ

昼間よ

扉の横に立ってたら

車内を見回すじゃない

ほら

そしたら釣りをやってる子がいたの

リールを回す回す

ビックリよ

ここは東京湾かって感じ

で側行ってよく見たら

まるで白いジャガイモ

ハンドルが横についてるの

ブッサイクな形よ

しかもお尻から線が出てて

たどるとその先には携帯

充電よ充電 自家発電

災害でも起こったのかしら

窓の外はいい天気だったけど

でね

メールチェックしてるの

でもこれが音信不通

誰からも来ないのよ

結局私が降りるまで

誰からも連絡なし

その間もリールは回りっぱなし

電気の問題じゃないの

人望の問題なの

って思わず言いそうだった

でもちょうど着いちゃって

降りてからね

思わず走っちゃった 私

同じもの買いに



店から駅への遊歩道

隣に涙の気配

好きな人にはこんなことしたらダメだよ

男の周囲が真っ白になる

頭の中を巻き戻し回想


あんたがバカにするから

男はさらに大雪原


男らしく優しくすればいいの?

優しさを欲しがって

期待通りに優しさが手に入ればいいの?

男と女を割り切ればいいの?


俺はバカになんかしてない

してたら会ってない

口を閉じて叫ぶ男


普通は言わないことを

言われたことのないことを

口にしようとしてきた男


道を外れる喜びを

未開の領域に踏み入れる興奮を

与えようとしてきた男


乾いた涙とうるおう女

まわりが色を取り戻す

男の口から安堵の息

女の口からは新しい息吹

小腹が減ったからどっか入ろ


そういえば

女は割り切れないと聞いたことがある



電車の床に座り込む二人

紫とグレーの頭が向かいあう

毛布を詰め込んだかばん

化粧に覆われた小顔

その頬に彼氏が触れる

彼女は紙切れを取り出す

注がれる二人の視線

かすかに笑みがこぼれる

プリクラに映った紫とグレー

二人のちいさなしあわせ

一枚の紙に凝縮されて

まぶしすぎる2つの



電車の床に座り込む二人

マナー違反を体現する

二人の回りにぽっかり開いた空間

見て見ぬふりをする常識人

反旗をひるがえした二人

10年後はどうしているのだろう

答えない二人

考えないようにしているのかい



電車が駅にすべりこむ

扉が開き込み合う車内

ふと彼氏が立ちあがる

彼女の腕を取って

二人は立ち上がる

誰にも何もいわれずに

奥につめるように寄り添う

何も言わず扉が閉まり

何事もなかったように動き出す



私はふと気づく

降りそびれたことに