つい先日38歳の誕生日を迎えた。
もう38歳になってしまった…

SNSが盛んな昨今、10年ぐらい前に比べるとたくさんのお祝いのメッセージなどをいただけるようになった。

子供の頃は誕生日が近くなると「何かかってくれんのかな」とワクワクしたが、大人になってしまうとそんなもんはなくなる。
また歳を取るのかっていう気持ちと、もうこんな歳なんだってう焦りしかなくなってしまう気がする。

SNSなどでいただくコメント、いいね の中には、単純に付き合いでっていう感じのものもあるだろうけど、少なからずそれだけの方々から認識されているという安心感が存在してくる。

返信のコメントには必ず「ありがとう」という言葉を使うようにしている。

「ありがとう」

この言葉は、自分自身が生きていくための大切な言葉。

言葉の真意を知るきっかけになったある出来事は、その後の僕の人生観を変えていった。

ありがとう=有難う

この言葉の対義語は「当たり前」

毎日毎日生活していく中で、いろいろなことに対して「当たり前」という感情を抱く。
そしてその多くが当たり前ではなかったりする。

朝、妻が用意してくれる朝ごはん。
お昼に食べるお弁当。
洗濯されて綺麗にたたまれている服。
目覚めた後の「おはよう」
「だだいま」の後の「お帰り」   など。
そして、今日も生きているということ。


22歳の頃に親友の1人を亡くし、深い悲しみに押しつぶされそうな時に聞いたお坊さんのお説教。

「毎日毎日、朝目覚めてそして夜にまた寝る。当たり前だと思っているその毎日に100%の保証はありません。
生きていく中で 絶対 と呼べるものは 死 しかありません。
22歳で亡くなられ世間的には早死と言われる人生だとしても、毎日懸命に努力し夢を追いかけていた彼の人生。
多くの友人達に見送られ旅立つことができた彼の人生。
我慢ばかりで何もできずに年月だけを重ねた人生よりははるかに長生きだったことでしょう。
当たり前だと思っている命。
本当は当たり前などではなく、今日もまた偶然に生きているという事です。
偶然にも生かされているというこの時間を、懸命に生きて下さい。
当たり前と思っている事柄には、必ずありがとうという感謝の気持ちを持って下さい。」


わかってるようで分かっていなかったその価値観。
有難うは当たり前を呼んでくれるというその価値観。

衝撃的だったその言葉を、親友から学んだ。

38年間、いろんな人のおかげこの命は今日も偶然に生きている。

支えてくれる妻や家族、いつも味方でいてくれる友人達に感謝したいと思います。