ある昼下がり、広い庭園を一望するベランダで、少女が一人静かに茶を嗜んでいた。
口許から音を立てずにカップを下ろし、少女は浅く、長い息を吐いた。続けてクッキーを一枚取って手を戻した途端、側仕えによって一枚欠けて調和を失ったクッキーの皿が別のものへと取り替えられる。初めは当惑し、しかし今は慣れてしまった光景。口に運ばれる一枚の他は盛り付けの芸術性を失った途端に無価値となる。以前までなら考えられない考え方が今はすんなりと理解できる事への不安感や危機感といったものにすら、少女はとうに慣れてしまった。
いつから自分はこのようにあったのだろうか。少女はそのように思考した。初めはそうではなかった事を少女はまだ忘れていない。しかしまだというだけだ。それすらもいずれ忘れてしまうだろう。そこまで考えを巡らせて初めて少女の胸裏に仄かな恐れが顔を出した。こう在らなければ得る事のなかった感情。しかし、こう在り続ければきっと忘れてしまう感情。その精算すべきひとかどの想いが彼女をこの場所にずっと縛りつけている。
「今日もダメそうですね」
言い、再びカップを口許に運ぶ。もはや底に溜まった茶葉まで口に触れそうな一杯を彼女は目一杯に引き延ばした。背後に控える教育係が身じろぎするのが分かる。確かに行儀は悪いだろう。だが、それに見合った成果は出たらしい。
ティーカップを下ろした彼女の前で、木々のざわめきが止んだ。
教育係に振り返る。
「ごめんなさい。部屋に戻ってからではいけないかしら。もう少し風に当たりたいわ」
彼女は困ったような顔をしつつも控えめに一礼し、一歩下がった。
少女は微笑み、目の前に向き直る。そこには裂け目が現れていた。
「お待たせしてしまったかしら。もうよろしくてよ」
呼びかけに応えるように裂け目が開き、膨大な音、声、文字と共に何者かが姿を現した。無数の文字列に身を包むその男のシルエットが徐々に縮み、その身が発する支離滅裂な声が鎮まっていく。そして彼は初めて自らの声を発した。
【随分とお優しくなった事だな】
「いつまでも変わらないものなど無い。貴方が教えてくれたのですよ」
【だが、簡単には変わらぬものもある】
男は体に力を巡らせ始めた。己の仇敵を討つための力を。少女もまた、それに応えるようにその身に力を巡らせる。だが、少女の力は目の前の敵が放つ禍々しいそれに遠く及ばない弱々しいものだった。光の下に身を置いてからの幾星霜、ひとときたりとも欠かした事の無い修練がこの男の前ではまるで児戯だ。少女は冷や汗を流した。焦りや恐怖からではなく、その理由を知っていたからだ。
「まさか……いいえ、やはりと言うべきでしょうか。それほどの力、一体何人の自分を……力のために己を食らうとは見下げ果てたものですね」
世界を渡り、その世界に存在する己を喰らって更なる力を得る行為。
【そう見えるか。このオレが、その程度で満足してノコノコとやってくるような間抜けに】
男が放つ力が膨れ上がる。溢れ出す禍々しいオーラが男の体を覆い隠し、粘性を持って滞留しながら徐々に圧縮されていく。
「これは!」
空気が軋み、草が枯れ、地面が、いや世界までもが崩れていく!なんたる重さか!世界にはこの男の力を受け止めるだけの容量が無いのだ!この男がこうしているだけで数刻と経たずこの世界は崩壊するだろう!この重さは己を喰らって得られるものではない!
【友は戻らず、世界は壊れ、我が戦いは遅きに失した】
響く声。乗せられた感情は、まごう事なき怒り!
【なれど止まらぬ。幾星霜もの世界を喰らい、貴様を殺し、高まるばかりの我が憎悪!我が怒り、我が無念、我が決意!もはや魂を割く程度で足るものか!】
男は手を前に差し出す。伸ばした手の上に錆びたロケット!収められた写真の中で二人の少年が肩を組んでいる!おお、我々は彼らを知っている!その少年、タケオとアツトを!だがそれはアツトと共にサシエ・アカバインの腸の中に消えたはず!
「それは……!ダメです!やめなさい!」
写真の中の二人の少年が、焼けた!なおも禍々しいオーラを退けるように輝くそれを男は容易く握り潰した。全身から迸るオーラが密度を増し、世界の全てが悲鳴を上げる!
【サシエ・アカバイン!貴様を割ってみたところで我が友が戻る事は無い。なれどその腸、割いてやらねば気が済まぬ!】
おお、それこそは文体忌術、無奉輪廻!代償を払う事によって力を得る秘術、その最たるもの!握り潰した物、記憶、そして存在を過去、現在、未来の全てから完全に消し去り、数刻にも満たぬ僅かな間のみその存在の重さ、そして術者の精神的負荷に応じた莫大な力を得る!存在しないものを捧げることはできない。故に何かが捧げられる事は無く、しかし捧げた事実が輪廻を回す。すなわち奉納でありながら簒奪。文体神の介入をも許さず、ただ力だけを引き摺り出す禁断の業!奪い取る事によって得られる強化幅は蟻一匹が宇宙戦艦を破壊するほど。それをこの男、タケオが最も信を置いた友を以て為せば何が起きるかは想像に難くない!しかも今彼が捧げたのは、サシエ・アカバインの封印を解かなかった世界の己を喰らいアツトを騙して奪ったロケット!敢えて喰わずに残した最大限幸福な結末を迎えたはずの世界を今、彼は消費した!
「そんな……貴方はここまで!」
少女の足が震える。いや、軋んでいる。そして彼女の力に保護されぬ周りの世界は砕け、戻らない。少女は一歩下がった。もはや全身に力を巡らせるだけではこの男の前に立つ事すら難しい!
【ヌウゥゥゥグ……ウォアアアアアアアアアァッ!!】
タケオの叫びはもはや人間のものではなかった。彼が語る事の無い世界渡り、世界喰らい、そしてその度に行われたサシエ・アカバインとの戦いとその世界におけるアツトの存在を消費した度重なる無奉輪廻。もはや彼には友の名も、一族の忌むべき宿業も、己の名がタケオかタカオかさえも分からぬ。だが、それでも彼は決して目的を忘れない!サシエ・アカバインを殺す。一人残らず殺し尽くし、その存在を消滅させる。させねばならぬ。ただその決意だけが長きに渡り彼を突き動かし、遂に最後の一人を探し出すに至ったのだ。妄執ここに極まれり!
「なんてこと……こんな、こんな事って!これでは怪異……いえ、そう呼ぶ事すら生温い……!」
少女は悲鳴と呼ぶべき叫び声を上げた。確かに決着を望んだ。タケオが現れ、雌雄を決する未来を見たはずだった。過去の過ちを、己の為した悪行のツケを精算しなければならないと思っていた。そうでなければ明日を生きることも、今日ここで死ぬことも自らに許す事ができない。そのはずだった。現れたタケオを叩き潰し、妄執に囚われた心を慰撫し、生命を捧げる覚悟があった。それでも、彼女の前に立つべき者はこの男ではなかった。彼女は決して、このような事態を望んだ訳ではなかった!
嘆く少女の前でタケオは構えを取る。その暗黒にも等しいオーラの奥でギラつく獣の眼光が少女を捕えて離さない。少女は初めて恐怖した。この男を生んだのが他ならぬ己であることを理解してしまったからだ。そして自分が未だ目の前の相手を舐め腐っていることをも目の当たりにしたからだ。相手を過小評価し、見誤って罪を重ねた。己には精算を望む資格など無い事を悟ってしまったのだ。
【討滅……する!サシエ・アカバイン……!我が、痛み。苦しみ、悲しみ……怒り。憎しみ!三千世界広しと言えど幾星霜の時を経て残るはもはや貴様のみ!ただでは殺さぬ!我が手中の同類と共に永劫の責苦を与え、存在を手慰みに混ぜ、切り分けてやる。ただ飢え、懇願し、満たされぬ渇きに苦しむ能しか持たぬ肉に住まわせてやる!己を憎み、己を殺し、己を食らう閉鎖輪廻に放り込む!死も、消滅も、貴様に許してなるものかァ!】
あまりの剣幕に少女は怯えた。幾度もの輪廻によって初めて善性を培った少女は、未だここま純粋な悪意を向けられた事が無かったのだ。恐怖のあまり手が震え、強化が緩み、ヒビが入って崩れ始める。しかしそれでも少女は一層強く手を握りしめた。応えるように彼女の肉体に巡る力が次第に増え、傷を癒し、両の拳を覆うように光り輝く手甲を形成する。戦う準備を整えた少女はしかし突如手を開き、武装を霧散させた。その目には僅かな迷いがあった。
「一つ、聞いておきましょう。私を倒し、全てを終えた後、貴方はどうするのですか」
タケオの、タケオであったものの目に一呼吸ほどの僅かな時間意思の光が戻り、少女に侮蔑の眼差しを向けた。
【殺し、喰らう。貴様が望む全てを我が全霊を以て否定する】
「そう、ですか。なるほど、よく分かりました」
彼女が再び手を握った。瞬間、溢れ出す輝き!先程までとは比較にならぬ出力!制御の甘さ故の余波、視覚化されない文体衝撃波が、凄まじいまでの重さにより存在するだけで世界を破壊するタケオの禍々しいオーラを押し返す!少女は再び一歩下がり、弓引くように手を構えた。
「せめて、名前を覚えておきなさい。貴方を倒す者の名を」
【サシエェェェアカァァァアバイイイィイン】
「かつての名です。それは私のものではありませんわ」
会話は通じない。もはやタケオは理性を失い、いつ襲ってきてもおかしくない。それが分かっていながらも少女は言葉を続けた。そうしなければならないという確信が彼女を突き動かす。その意志が、言葉が、己を定義する事を少女は誰よりもよく知っている!
「私は、赤羽院サーシェ。タケオ!我が祖たる血族、最後の文体の末裔よ!あなたを、討滅します!」
二人の纏う巨大なオーラが、文体が、衝突した。