先ほど読んだ「コラム・インテリジェンス」https://ameblo.jp/column-antithesis/

の本日の記事「アウレリウスの独り言45(了)」にマルクス・アウレリウスの『自省録』の

引用でこんな言葉が載っていた。

「善い人間のあり方如何について論ずるのは、もういい加減で切り上げて、善い人間になったらどうだ!」

ブロガーのアリストス氏は

そうありたい。

が、そう成り切れない自分を切磋琢磨するために、

 65年もかけて知と経験を探求してきた。

が、そう成り切れないので、今までも、これからも

心身の鍛錬を続けることにする。

が、その情動こそが僕の平安安寧であることには、

 少しは気付かされてきたような気もしないでもないのです。

と、続けている。

 

確かに善い人間になることは、ほとんどの人が望むことであろう。

では、「善い人間」と「良い人」、あるいは「人が良い」「お人良し」に違いはあるのだろうか。

 

なぜ、こんな疑問を呈したかというと、自分は中学の頃から「良い人」「お人好し」と言われ続けてきたからだ。

これは自分が善い人だと自慢しているのではないので、最後まで読んでほしい。

「良い人」「お人好し」と言われる理由はたくさんあるが、まず第一にあげられるのはすぐ人を信じることだと思う。

人を疑うという気持ちが少しもなく、人の話を鵜呑みで信じてしまう。

そのため、どれだけ人に騙され、裏切られ、傷ついたことか・・・。

「お人好し」が災いして人の責任までとったり、友人からは「最後の滅私奉公タイプ」と半ば呆れられた。

それでも、人を信じ、人に尽くす性格はあまり変わらなかった。

「騙されるのは自分が悪いからだ」とか「騙すより騙される方が良い」と両親から言われたことが

いつの間にか刷り込まれてしまったのかもしれない。

とにかく、大人になっても「人が良い」「お人好し」の「良い人」状態であった。

 

30代の頃、某大会社社長の個人秘書を足掛け10年ほど務めたことがある。

個人秘書というと格好良いが、早い話、今では死語の書生のようなものでいわば便利屋である。

その会社の社員ではないので、給料というより報酬は、社長個人からいただいた。

職種は社長のプライベート雑務のすべて・・・スケジュール管理、代筆から運転手、掃除まで多岐に及んだ。

 

そんなある日、奥様同伴のパーティに出席するための運転手役を務めていた時、

奥様、すなわち社長夫人(周知の事実で性格が悪い方)が某氏を中傷する発言をしたので、

某氏のことをよく知っていた自分は、思わず某氏を庇う意見を述べた。

すると奥様は「hercule君はほんとに人が良いのね」とおっしゃった。

その時、初めて「人が良い」こと、「良い人」というのは褒め言葉ではないと知ったのだ。

そして、自分は中学の頃から20年以上「良い人」「人が良い」「お人好し」と

揶揄され続けていたことに気づいた。

 

日常こそが不条理だと思うようになったのは、その時からである。

社長の個人秘書を務めたおかげで、社長から学ぶことも多く、育てていただいた思いも十分あるが

なんといっても、日常は不条理だと気がついたことが一番の収穫である。

不条理は突き詰めれば喜劇だ。

「良い人」「人が良い」「お人好し」が褒め言葉ではなく、人を貶める言葉だということはコメディでしかない。

 

自分はアウレリウスのいう「善い人間」ではないのだろう・・・。