ジュニマネ回想記 -71ページ目

父の誕生日

$ジュニマネ回想記-マキキの森

今日、4月22日は、亡くなった父の誕生日だ。

62歳で亡くなった父が、
生きていたら今日で何歳になったのか
私にはもうわからなくなってしまった。

私は子供の時から父とはあまり親しくなかった。
ほとんど父娘の会話もなかったし、
できるだけ顔を合わせなくても良いように暮らした。

私だけが早くから家を出て海外に来てしまったのも
父から遠く離れたいという気持ちが
いつも心のどこかにあったせいかもしれない。

私の父は、ヘビースモーカーで、内弁慶のアル中で、
酔うと母に暴力を振るうような人だった。

なぜか私の兄と妹は、そんな記憶全然ないと言うのだが
寝付きが悪かった私は、しばしば修羅場に居合わせて
父の暴力を止めようとしてトバッチリを食ったりもした。

真夜中の怒鳴り声や母の泣き声が
どうして兄にも妹にも聞こえなかったのか
私は今でも不思議に思う。

「お父さん大好き!」という友達がいると
スゴイなぁ~、幸せな家庭なんだなぁ~、と
心底うらやましく思ったものだった。

みんなのお父さんはお酒を飲んで暴れたりしないのか
私は誰かに一度聞いてみたいと思ったものだが、
常に母から「家の中の恥ずかしいことは、
ぜったいに人に言っちゃダメ!」と釘を刺されていたので
仲良しの友達にも誰にも言わずに我慢していた。

でも、母はそんな父の仕事を支え、家族を守った。

もともと気が強かったのか、
父との結婚生活が彼女を強くしたのか、
母は今でもなるべく敵に回したくないタイプのひとだ。

私が成人してから一度大病に罹った父は
歳を重ねるにつれ、だんだん勢いもなくなった。
酒を飲んでも以前のように暴れることはなくなった。

いやいや経営していた会社をやっと辞めてから父は、
ゴルフも始めたし、ハワイにも遊びに来るようになった。

ハワイでお酒を飲んで良い気分になりながら
父は私に「千尋は親不孝な娘だ」と言った。

外国人と結婚して海外に移住してしまったのは
実に親不孝なことだったらしい。

それでもそんな会話ができるようになったのは
私たち父娘にとっては大きな進歩だった。

そして若い頃の悔いを改めるためか、父は母を誘い
四国の八十八カ所巡礼に出かけたりもした。

人間って、変わるものなんだと、
その頃私は父を見てつくづく思った。

「今さら変わったってもう遅いよ」とも
親不孝な私は思ったけれど、口には出さなかった。

いつの間にか私は父のことを嫌いではなくなっていたし
歳とって仲良くなった両親は、見ていて微笑ましかった。

ハワイのことが大好きになった父は
末期の肝臓癌が見つかってからも
母とふたりでこの島に遊びに来た。

田中オブ東京がいたく気に入っていた父だが
「江戸屋のステーキはハワイで一番旨い!」と
ぜんぜん違う名前で褒めていた。

「ハワイは本当に良いところだなぁ」と父はよく言った。

ヒルトンのペンギンを孫達と一緒に見に行った時の
うれしそう~に笑っている父の写真を引き延ばして
母はお葬式の遺影に使った。

今日、日本にいる母に電話した時、
「パパは何年生まれだったっけ?」と聞くつもりだったのに
他の話をしているうちに聞きそびれてしまった。

父が亡くなったのは、阪神大震災の数日前だった。

父からもっとたくさんの話を聞いておけば良かったな、と
私は時々思うので、ジュニアのお父さんの話は
しょうもないシモネタジョークでも、同じ話でも、
何度でも聞くつもりでいる。

パパ、お誕生日おめでとう。

平和

$ジュニマネ回想記-Peace

AN EYE FOR AN EYE
MAKES THE WHOLE WORLD BLIND.

目には目を
という考え方は
世界中を盲目にする。

OUTWARD PEACE IS USELESS
WITHOUT INNER PEACE.

内側が平和でなければ
外側の平和も無意味である。

YOU MUST BE THE CHANGE
YOU WISH TO SEE IN THE WORLD.

あなたが世界に望む変化を
まずあなた自身に起こすべきだ。

………ガンディーの言葉は、魂に効く。

この本は、私が出会えてヨカッタと思う本の
トップテンに入っている。

アンティー・ジーン

$ジュニマネ回想記-ノースの道

今日は、ジュニアの叔母さん、
アンティー・ジーンのお誕生日だった。

お父さんの妹だ。

写真を見せてもらったら、とても素敵な人だった。
ミス・桜祭りにも出場したくらい、美人で聡明な人。
お父さんの自慢の妹だった。

「ジーンはいつも明るくて、笑顔で、前向きだった」と
お父さんはよく私にも話してくれる。

ジュニアは「お父さんに何でもズバズバ言えたのは
アンティー・ジーンくらいじゃないかな」と教えてくれた。
「千尋をアンティー・ジーンに紹介したかったなぁ」とも。

アンティー・ジーンがまだ50代の若さで亡くなった時
お父さんは日本でコンサートツアー中だった。

ジュニアがそのことを伝えるために日本に電話をしたら
お父さんは言葉を失っていたと言う。

お父さんはその後どんな気持ちでステージに立ち
ウクレレを弾いたのだろうと思うと
私も胸がいっぱいになる。

昨日、私が訪ねて行った時お父さんは、
「ジーンのバースデーは19日だから、
ボクはもうお墓参りに行って来たよ。
バラの花、1ダース持って行ったの」と言っていた。

アンティー・ジーンに
私も会ってみたかったな、と思う。

Happy Birthday, Aunty!

画才

$ジュニマネ回想記-サリーナ作4/17/10


私も長女サシャも長男ケンもそうだったが、
うちの6歳児は小さな頃から本当にお絵描きが好きだ。

そして原田のおかげか、彼女は猫の絵を得意としている。

ジュニアはあまり絵を描くのが好きではないので
次女の画才(と呼べるのかどうかは別として)は
私からの遺伝だよ、といつも言う。

果たしてそうだろうか。

ここでお見せできないのが残念だが、
ジュニアはかなり味のある個性的な絵を描くのだ。

そしてそれは間違いなく、
ジュニアのお母さんからの遺伝だと思う。

2,3年前、次女にリクエストされて
ジュニアのお母さんが描いた猫の絵は
非常にセンセーショナルだった。

私はいつかこの猫を主人公にして
マンガブログを始めたいと思ったくらいだ。

オフィスのみんなも魅了されたその名作は
今でもオフィスの冷蔵庫に貼ってある。

先日ジュニアのお母さんがオフィスに来た時のこと。
彼女は冷蔵庫の前でこの絵を見て
「まあ~、誰が描いたの、コレ」と言って、
クスクス笑った。

$ジュニマネ回想記-ジュニママの絵

花柄

$ジュニマネ回想記-トングス

私が小学校低学年の時のことだった。

たぶん兄とかくれんぼか何かやって遊んでいた私が
階段の下の押し入れの中で見つけたソレは、
とってもファンシーなピンクのお花模様だった。

ママってば、コッソリこんなところに
かわいいポケットティッシュをいっぱい隠してる…と、
ソレについてまだ何も知らなかった私は思った。

1個くらい頂戴してもゼッタイにバレないくらい
ソレはバッグに何十個も入っていたので
私は遠慮なく1個出してポケットに入れた。

確かその翌日が社会見学の日で
名古屋近郊にあった乳酸菌飲料の工場見学に
私たちは連れて行かれた。

かわいい花柄ポケットティッシュをデビューさせる
絶好のチャンスだった。
みんなでお弁当を食べる時に、ソレを使うのだ。

私が自慢気にそのティッシュを出して
仲良しの友達に見せたら、
みんな「カワイイ~ドキドキ」とうらやましがった。

さっそくおむすびの海苔がついた指を拭こうと
私はポケットティッシュの花柄パッケージを開けた。

「????」

なんてヘンなティッシュだろう、と私は思った。
かわいいティッシュを1枚もらおうと待ち構えていた友達も
みんな「????」という顔になった。

紙はひとつにまとまっていて、
ちょっとやそっとじゃ1枚ずつに剥がれない。
しかも数枚目はビニールのような素材になっている。
うわっ、綿も出てきた!

これはいったい何に使うモノなのか…。

担任の先生は男性で、おそらくそんな私たちのことを
遠くから見て見ぬフリをしていたと思う。

ソレが生理用ナプキンだったと知ったのは
その数年後だった。

大人になってから私がその話をすると
「私なんか弟にも持たせたわ」という友人や
「お人形さんのお布団にしようとしてママに止められた」
という友人もいて、みんなで爆笑した。

今日、海で波待ちをしている時に
Pちゃんのサーフボードの花柄を見ながら
ふっとそんなことを思い出した。

満月が原田に及ぼす影響

$ジュニマネ回想記


原田は、もう何年も獣医さんのところに行っていない。

子猫の頃はちゃんと予防接種にも連れて行ったし、
6ヶ月頃には去勢もした。

1年検診のお知らせも毎年届いていたので
忘れずにクリニックを訪れた。

でも原田は尋常ではない小心者なので、
もちろん獣医さんは大嫌いだった。

しかも毎日ずっと家の中にいる原田は
外に出るのもあまりうれしそうではなかった上、
クルマに乗ると、あっという間に乗り物酔いして
猫キャリーの中でゲロゲロ吐いた。

最後に原田を獣医さんに診てもらったのは
お腹の毛玉がうまく吐けなくて
ちょっとつらそうだった時。

ちょうど定期検診のお知らせカードも来ていたので
ついでにチェックアップもしてもらうつもりだった。

いつも原田に激しく抵抗され引っ掻かれていたドクターは
今回は肘まで隠れるゴッツいグローブ着用で原田の診察に臨んだ。

そのグローブを見た途端にシッポがボワッと
3倍くらいの太さになった原田は
とにかく必死になって逃げようとした。
ナースたちを引っ掻いたり噛み付いたりの流血騒ぎだ。

「麻酔で眠らせないと診察できない」とドクターに言われ
ナースたちはやっとこさ原田を押さえつけたのだが、
そこへグローブ着用の獣医さん再登場。

原田にとって彼女は、ゴツゴツした巨大な手を持つ
モンスターにしか見えなかったのだろう。

改めてものすごい勢いで抵抗を始めた原田は
気づいたら診察台の上で仰向けになり、
まるで倒れたゴキブリのようにジタバタ暴れていた。

そしてそのうち原田は、ブレイクダンサー風に
診察台の上を背中でぐるぐる回り始めた。

…と同時に、失禁開始。

それはもう、スプリンクラーそのものだった。
ドクターもナースたちも清潔な壁や医療器具も、
フレッシュな原田ウォーターの洗礼を受けた。

私はちょっと離れたところから、なす術もなく見守った。
なんと仕上げに原田はダップンもしたので
検査用の糞は簡単に採集できた。

原田に麻酔を打ち眠らせたドクターは
「今日は満月の日だから、原田は満月に反応しているのね」と
いつも月の満ち欠けに関係なく引っ掻かれているはずなのに
何故か原田の醜態を満月のせいにした。

満月に反応して豹変するのは、狼男だけではないのだ。
動物の多くは、満月の日には凶暴になるらしい。

結局原田は健康そのもので、その時の毛玉問題も解決した。

しかしそれ以来そのクリニックから二度と
原田に定期検診のお知らせが来ることはなかった。

ゆうえんち

$ジュニマネ回想記-遊園地で

この写真が撮られた時のことを、
うっすらと覚えている。

幼稚園の遠足で行った、東山動物園の遊園地。
ボートが水の上をグルグル回る遊具だった。

ここからだったらタダで乗れるじゃん♪…と思った。

後ろから写真を撮っていたママが
「コラ!千尋!なにやっとるのっ?!」と
怒鳴ったのはこの直後だった。

大きくなってからこの写真を見て
「あ、私ってばていねいに靴まで脱いでる」と気づいた。

ジュニアの来日スケジュール

$ジュニマネ回想記-ジュニア

ジュニアが、ウクレレ片手に来日します。

元ピュアハーツのジョン・ヤマサトが
ギターを持って同行します。

現在のところ決定しているスケジュールは下記の通りです。

5/30(日)  Toy's Music (東京・渋谷)

Open 12:30 Start 13:00


6/2(水)  栃木県総合文化センター(宇都宮)

Open 18:30 Start 19:00


6/5(土)  Thumbs Up (横浜)
    

6/6(日)  West Point (福岡・西新)

Open 13:00 Start 13:30


6/8(火)  Bottom Line (名古屋・今池)
    

6/9(水)  HAMP 3RD (奈良・大和郡山)

Open 18:30 Start 19:30


6/10(木)   集・酉・楽 (京都・東山七条)

Open 18:30 Start 19:00


6/11(金)  OHANA (大阪・岸和田)

Open 19:00 Start 19:30


ファンクラブメンバーの皆さんは、先行予約できます。

詳細、お問い合わせは、
岩崎ケンさんまで♪(090-1999-1154)kenamahalo@nifty.com

細道

$ジュニマネ回想記-トングスの道

いつものサーフポイントから
クルマが停めてある場所まで歩く時、
この細道を通るのが好き。

アスファルトで固められていない、
今となっては稀少な土の道だからかもしれない。

ここを歩く時いつも私は
子供の頃の夏を思い出す。

ミーンミーンミーン…って
蝉の声が聞こえてきそうだけど
ハワイには蝉がいないので、
この小径はいつも静かだ。

サーフボードを頭にのせて歩いていると、
濡れたゴム草履の立てるニチャッニチャッという音と
土を踏むザクッザクッという音だけが聞こえる。

ザクッ、ニチャッ、ザクッ、ニチャッ…

サーフィンの後のけだるさも心地よくて
ここを通るたびに私は
生きているってスバラシイ…と大げさに思う。

トレイシーとローラ

ジュニマネ回想記-トレイシー&ローラ

私がトレイシーとローラに初めて会ったのは
確か20歳くらいの時だった。

トレイシーもローラもまだハワイ大学の学生で、
交換留学生として日本を訪れていた。

トレイシーは私が働いていたサーフショップのオーナーの家に
短期間だったがホームステイしていたのだった。

トレイシーはやさしいローカルボーイで
ローラはすごいハイテンションなローカルガール。
ふたりともチャイニーズ系だった。

その後、私がハワイに行くたびに
トレイシーはあれこれ面倒を見てくれたのだが、
その都度ローラも一緒に来て、私と急接近。

私は初め、トレイシーとローラは恋人同士かと思ったのだが
それをトレイシーに聞くと、彼はキッパリと否定した。

でもローラの方は明らかにトレイシーに恋していた。
しかもかなり強烈に。

ローラが私とミョーに親しくなってくれたのは
おそらくトレイシーと私が良い仲になるのを
ヒジョーに恐れてのことじゃないかと
私はうすうす感じていたけれど
英語を勉強するにあたり、仲の良い女友達ができたことは
私にとっては最高のできごとだったと今も思う。

ローラと私は1冊ずつ単語帳を用意した。
私にわからない単語があると、ローラが教えてくれた。
そしてその単語を今度は日本語にして、私がローラに教えた。

学校ではゼッタイに教えてもらえないような
女の子が必要とするあらゆる単語や隠語も
ふたりでたくさん教え合った。

その後ローラは日本の私の家に2週間くらい泊まりに来たし
私もハワイに行く時には、ローラの家に泊まるようになった。

大学を卒業してからローラは、バイト先のハレクラニホテルに
そのままコンシアージュとして就職することになった。

トレイシーも長い間バイトしていたホテルのマネージメント会社に
そのまま正社員として就職した。

私は学生ビザでハワイに戻って来て、ローラの家に下宿することになり
私とローラはまるで姉妹のように暮らした。

トレイシーが私を誘いに来る時は、当然ローラも一緒に行動した。
ローラは私に自分がどれだけトレイシーを愛しているかを教えてくれて
私もその頃恋していた男の子の話をローラに聞いてもらった。

でもなぜかトレイシーは、ローラに恋愛感情を持ってくれない。

ローラはトレイシーが私のことを好きなんじゃないかと
密かに胸を焦がしていたと思うが、
別にトレイシーが私に恋しているワケではないと、
私にはハッキリわかっていた。

ハレクラニホテルが日本の会社に売却された時、
ローラはそれまでのオーナーの会社に残ったため
ワシントンDCのリージェントホテルに転勤が決まった。

それを機にローラは、トレイシーのことをあきらめて
前に進もうと思ったのだろう。

そして私にもワシントンDC行きを強く勧めたローラは
私だけがハワイに残り、トレイシーの彼女になってしまうのを
なんとか阻止したかったのかもしれない。

どちらにしても私は、ニューヨークの大学に行くつもりだったので
ローラの「DCにすれば私と一緒に住めるから、お金がかからないし
ニューヨークだってそれほど遠くないのよ」という誘いに乗り、
愛するハワイを後にして、DCに引っ越した。

DCの学校生活についてはまたいつか書く事になると思うが、
結果的に言うと、ローラは1年半もするとハワイに帰ってしまった。

私はそのままDCに3年ほど暮らし、日本に1年住んでから
またハワイに戻った。

ローラは持ち前のテンションの高さと滑舌の良さを活かして
ラジオでしゃべったり、テレビ局で働いたりしており、
トレイシーはというと、あいかわらず同じ会社で働いていた。

私も忙しくて、なかなか以前のようにトレイシーやローラと
一緒に行動することはなくなっていた。

ある夜、ちょっとした取材も兼ねて、私は日本からの男友達と
その頃クヒオ通りにあったゲイバー「フラズ」に出かけた。

店に入る時私が鉢合わせたのは、ボーイフレンドと肩を組んだまま
私の顔を見て固まってしまったトレイシーだった。

ありゃりゃ。ローラが青春を捧げて恋したトレイシー、
もっと早くカミングアウトしてあげれば良かったのに。

ローラも今度こそはトレイシーをあきらめ、
それから何年もの間、トレイシーからの音沙汰がなくなった。

そして、ある日ローラからの電話で知ったのは
トレイシーが癌に冒されたということ。

それから半年くらいだったか、トレイシーが闘病する間、
私もローラも頻繁に病院や実家を訪ね、トレイシーを見舞った。

まるで学生時代に戻ったように、音楽の話や映画の話で盛り上がり
共通の友達の近況を知らせ合い、くだらないジョークに笑った。

トレイシーのゲイ友達もよく病院を訪れた。
トレイシーはもう何も隠す事なく、私に話してくれた。

両親のためにも、決してカミングアウトはできなかったこと。
誰にも知られたくなかったのに、私にばったり会ってしまったこと。
私が仲良くしていたゲイの友人と、ゆっくり話をしてみたかったこと。

私が最後にトレイシーに会ったのは、ホスピスの一室だった。
ゆっくり病室を巡るミュージシャンのボランティアが
ギターを弾いて歌ってくれるハワイアンソングを一緒に聴いた。

ガイコツみたいに痩せたトレイシーは、空洞のような目で
呆然と空を見つめて、何か口の中でつぶやきながら
少し涙をにじませていた。

私は、さわるだけで痛いはずのトレイシーの手を
そ~っとそ~っとつないで、一緒に泣いた。

トレイシーはまだ、40歳になったばかりだった。

ジュニマネ回想記-トレイシーと