このブログは私の日記であり、多くの人に読んでもらいたくて書いているわけではない。
ヤフーブログの頃は、大会で会って顔を知っているラン友さんたちとのやり取りもあったが、今はそういうこともなくなってしまった。
11月末に記事を上げた後、記事を書く気になれなかった。
そもそも11月30日に記事を上げていること自体、心も体もボロボロだったはずで、今となっては不思議でしょうがない。
平然を装おうとしたのだろうか?
しかし今後もブログを続けて行くには、この事実を書かなければ、次の記事を書くことができない。
そしてようやく書く気になった。
最愛の息子の「死」である。
ここからは自分の心を整理するために書く。
2013年12月の青島太平洋マラソンで自己ベスト(3時間7分)を出したが、1年後足底腱膜炎の痛みで全く走れなくなった。
走ることが生きがいだったのに全く走れなくなり、失意の中にいた2016年2月、息子が突然の病に倒れ、入院したまま社会復帰は望めない状態になった。
それからは毎日毎日面会に行き、息子のためになることは何でもした。
手足が拘縮しないようにリハビリの真似事もした。
リハビリ期限が来ても実費を払って続けてもらうために、きつくてもエクストラの仕事も頑張って続けた。
体力維持のために泳げないのにスイムを始めた。
2018年、足底腱膜炎は治り、徐々に走れるようになった。
そして2019年2月の北九州マラソンを完走(サブフォー)した。
ところが6月に前立腺癌であることが判明し8月に手術。
術後まもなく走り始めたが、すでに転移していたことが分かり、2020年2月からホルモン治療開始。
これが体力・筋力を奪ってしまい、走るのがきつくてたまらなくなった。
当然スピードも出なくなった。
距離も踏めなくなった。
息子のためにも走り続けようとしたが、気力が無くなっていった。
加齢もあり、気力・体力とも落ちてしまった。
ちょうどその時期、憎っきコロナ禍がやってきた。
当然面会はさせてもらえなくなり、何もしてあげることができなくなった。
息子の病状が悪くなると、心配でアルコールに頼る時期もあった。
熱を出したり状態が悪くなったら主治医から説明があると呼ばれて病院に行き、短時間顔を見ることはできた。
コロナの波がおさまると、面会が1~2週に1回許される時もあったが、時間制限があって何もしてあげれなかった。
そして次の波がやってくるとすぐに面会禁止。
心底コロナを憎んだ。
2023年1月、主治医に呼ばれ、病院の方針転換により入院継続ができないと、他の病院への転院を告げられた。
しかしなかなか転院先が見つからず、というか主治医が紹介状をなかなか書かなかったのが原因らしいが、ようやく8月に転院することになった。
コロナ禍になり、病院スタッフがどんどん変わり、知らない人が増え、冷たい対応をされることが多くなり、不満がたまっていたのでちょうどよかった。
次の病院は人情味を感じるいいスタッフさんが多かった。
面会は隔週しかできなかったが、時間制限は緩やかで、30~40分いても怒られることはなかった。
11月18日(土)、前立腺癌の定期受診日でPSAが上がっていないことを確認し、午後面会に行った。
前夜から40℃の高熱が出ていて、体がとても熱くかわいそうだった。
11月22日(水)朝6時、病院から電話がありすぐ来るようにと。
部屋に入ると苦しそうな呼吸をする息子がいた。
30分ほどすると呼吸が弱まり止まった。
とうとう止まってしまった。
8年近くも頑張ってくれていたので、その時が来たら逝かせてやって欲しいと、延命処置の希望はしていなかった。
ようやく苦しみから解放されたんだなあ、ようやくベッドから解放されるんだなあと、ある意味ほっとしたような気持にもなった。
息子が苦しんでいた間、苦しむ息子を見て我々夫婦も苦しんでいた。
人聞きが悪いかもしれないが、長期間入院するということは息子を人質に取られていたようなもので、遠慮・我慢の連続だった。
ようやく息子を取り戻せたような気がした。
そのまま斎場にふた晩泊まり込み、通夜・葬儀。
誰にも邪魔されたくなかったので、家族3人だけで送ることにした。
火葬して骨壺に入った息子を家に連れて帰り、
「おかえり。やっと帰ってこれたね。」
久しぶりに我が家で家族4人、ゆっくり過ごすことができた。
実は息子が亡くなった日の夕方、妻が発熱し、簡易キットでコロナ感染が判明。
斎場のスタッフさん、御住職からは構わず通夜・葬儀をしましょうと言ってもらえ、春に5類移行していたおかげだと思った。
移行していなかったらどんなことになってたことやら。
翌々日私が発熱し、さらに娘が発熱。
家族全員コロナでダウン。
のどの痛み・鼻水・咳・痰がひどく、咳・痰は年明けまで続いた。
味覚・嗅覚は大丈夫だったが、元々あった軽い難聴が悪化。
声が小さいと、今でも言葉が聞き取りにくいままだ。
息子を失いはしたが、仏様になって待っていてくれると思うと、死ぬことへの恐怖は和らぎ、息子に会える喜びの方が増している。
まだしっかりと前を向くことはできないが、残りの人生を息子に恥じないものにしなくてはいけないと思う。
この8年間、いつでも息子の所へ行けるよう、遠いところには行かなかった。
エクストラの仕事を減らしてどこか行ってみたい気もするが、まだ気力が湧いてこない。
去年から始めた鉢植え果樹栽培は、体調が悪くてもコロナにかかっても、放棄したら枯れてしまうので続けている。
植物とはいえ、生き物であることに変わりはなく、生き物を扱えばこちらが力をもらえる。
もうすぐ芽吹きの季節がやってくる。
少しづつ前に向かって歩いて行きたい。
合掌