ジャカランダの木の下で

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インド駐在時、もとバックパッカーの浜太は、
夏休み、ちび助、トトとジュンを連れて旅しました。
2010年6月は、北海道旭川から広島宮島まで日本縦断の旅。
2011年6月は、フランスからスペイン、サンチャゴ巡礼、ビルバオに親戚を訪ねにいく旅。

きっと今度本帰国するときは、家を建てて定住するかも知れないな・・どんな町に住みたいのか、ゆっくり色んな町を歩きながら考えました。
(結局、今回も家を建てる計画は白紙に戻ってしまいました)

浜太一行は、不思議と海辺の町にいつも惹かれます。
2010年の旅は、函館の町。
歴史ある教会が多い港町の雰囲気が大好きです。
外人墓地に隣接する日本人教会墓地の墓碑銘で一番多かったのは
「われらの国籍は天にあり」という聖句。
その昔、本州から渡ってきて、北海道で生きた方々の覚悟と決意が感じられ、それと共に、確かに本当の故郷に帰っていかれた安堵する気持ちも伝わってきました。
墓地を抜け、海の見える喫茶店で、甘いロシアンティーを飲みました。

広島では、平和資料館にいずれは連れて行きたいけれど、ヒロシマ以前の広島の豊かさをまず伝えたくて、宮島に行きました。ロープウェーを乗り継いで、見下ろすと、今まで見たことのない、明るくて深い生命溢れる青い青い海が輝いていました。瀬戸内の海、ほんとうに美しかった!この日は、小学校の遠足は宮島だったという、呉の友達が一日おつきあい、彼女の子供の頃の思い出も一緒にガイドしてくれました。

北海道の札幌、広島の鞆の浦では、ニューデリー日本人学校から先に本帰国していた、トトのお友達を訪ね、案内していただいたのもいい思い出になりました。日本の良さをしみじみ味わった、ひと月でした。

その日本の旅から9か月経つ頃、日本では東日本大震災が起きました。日本人は、豊かな生命の海に生かされてきたと同時に、歴史を通じて幾度となく、凶暴な逆巻く波の前に倒されてきた国民でもあることを知りました。

あの日、日本にいなかったという負い目は、一生消えることがないように思います。あの日の恐怖を共有していないのです。インドにいてよかったですね、と言われることがありますが、とても複雑な気持ちがします。

2011年の夏休みは、浜太の従妹がお嫁に行ったビルバオを最終目的地にスペインの旅となりました。トトとジュンには従妹が一人もいないのですが、ビルバオには ハトコがいるのです!バスク地方を中心に、海辺の町を辿って行きました。サンチャゴ巡礼の後、訪れた港町、ア・コルーニャが、この旅のピカイチでした!
ローマ時代から現役の灯台がある岬を、ぐるりと周る路面電車に乗ってビーチで下車。トトとジュンは波打ち際で遊び、浜太は浜辺でのんびり過ごしました。

この年、トトは9歳、ジュンは5歳でした。毎日10キロ以上は歩いていたので、ジュンは時折「もう、歩けない・・」と言って泣きべそをかいていました。そんなときは、インドと同じメーカーのアイスクリーム販売リアカーをめざし、ちょこんと座ってアイスを食べると、また頑張れるのでした。
時には、「そっか、ジュンとはこの街でお別れだね」「えっ、いつ戻ってくるの?」「ううん、この街にはもう二度と戻って来ないよ」「・・(涙)」「じゃあ、頑張って歩く?」「・・うん」 なんていう会話も。
毎朝、自分の荷物を自力でまとめてパッキングするのも訓練のうち。姉のトトは、弟のジュンの面倒を良く見て、励ましました。
それでも、次の交通機関に辿りつくのはいつもぎりぎりだったかな。
思い返せば子供たち、よく頑張ったね!

という訳で、インドから本帰国して住処に選んだのは、函館やア・コルーニャつながりの港町、横浜だったのでした。親類縁者だーれもいないけど、住んでみたかったから住んでみた(笑) 住んでみて、やっぱり好きな町でした。もうちょっと長く住んでいたかったな。3月末にはパキスタン、たった1年の横浜暮らしでした。