実を言うと、否定をすることで気の質が重く硬い状態になる原因がわかりません。しかし、否定をすると自分自身の気の質が明らかに変わることは誰にでも感じ取れることです。
人はなぜ否定という行為で自分自身を感じようとしたのでしょう。皆さんも強い感情を感じると自分にエネルギーが集まってきた経験がありませんか。自分以外感じなくなるといってもいいかもしれません。ある意味、全力で自分を感じることになるのです。
これが自己憐憫という行為に耽るきっかけかもしれません。
もちろん、勝利や何らかの成功でも自分自身を強く感じることも可能です。しかし、世の中を見ていただければ甲子園の出場校でも優勝できるのはただ1校です。それ以外の参加校はすべて負けるのです。さらにいえば甲子園球児でも一握りの人だけがプロに行き、そのまたわずかな数名が誰でも知っているヒーローとなるのです。
つまり、ごくわずかの勝者の陰にたくさんの敗者がいるのですから勝利や成功で自分を感じる機会よりも敗北感や劣等感を感じる機会の方が多く、それらを利用するほうがより簡単だったのかもしれません。
また、周りの人が慰めることで他人にやさしさなどを集めやすいという点も考慮できます。他人の優しさを得るための方法として自分自身を不幸な状態にすることも、私たちは採用するかもしれません。他人の優しさはとても心地よいものです。他人の気持ちを利用することもまた一つの自分自身の感じ方と言えるでしょう。
逆に、他人に否定されることによって自分自身を感じることも可能です。おそらく、こちらの方が日常生活では多のではないでしょうか。なぜならば、否定は否定を呼ぶからです。親が否定的ならば子供も否定的になり、お互いに相手を否定する家庭が出来上がるのです。そしてそのような家庭で地域社会が構成され、それらが集まって国ができればうまくいかない国が出来上がります。
このような国に住みたいと思う人が居るでしょうか。
かつて中国大陸には「大学」という儒学の基本の本がありました。それは、政治家が読むべき必須のテキストと言えるようなものです。この本は「天下を平にする」ため、つまり世界を平和にするためにはどうするかという方法が述べられていて、その必須条件として「身を修め、知に至る」という一文が出てきます。
これは、世界を平和にするには自分自身の心身についての知識を習得することを意味すると私は解釈しています。そして、それには人は自分自身の体だけではなく心について知りつくさなければならないのです。それは、心理テストのようなものではなく、心とは結局なにかということを突き詰めることです。
この心の知識を習得する過程で必ず人は自分自身の心の中で起きる問題に出合います。そして、否定という行為をする自分自身の傾向に出会えば、その謎を解き明かすことでしょう。そして、自分の心をマネージメントできない人に世界を平和にできるわけがないことは、誰の目にも明らかなのです。