前回の分 をちゃんとしたかたちでかこうとおもいまーす。




伝統的な結婚式っていったいどんなものだろう?


そう思った私は、早速祖母の家に赴き、ある1枚の写真を見せてもらった。
祖母の父と母が結婚式を執り行った際にとられた写真であった。

畳の和室に、男性と女性がそれぞれ晴れ着に身を包み、女性は椅子にすわったかたちで、男性はそのとなりに凛々しくたって、写っていた。


約80年前の写真カメラ
当時は結婚式といっても、それは自宅で行われるのが普通であったようだ。だからこの写真が取られた場所も彼らの家であろう。


それが昭和30年代にはいってくると(このS30というのが非常に大事であって、それはなぜかというと日本の高度経済成長がスタートした時期だからである)、自宅に変わり専用の結婚式場がつくられた。それによっていけいけどんどんの風潮の社会では、専用の豪華施設を利用しての婚礼が多くなった。

これがいわゆる「ハデ婚」



それが低成長期に突入し、バブルそしてその崩壊へと時が流れていくにつれて、スマートなサービスを受けながらの会食を中心としたものがだんだんと多くなってきたのだ。

これがいわゆる「ジミ婚」



ここで社会学的アプローチをしてみると



この結婚式の様相の変遷のなかで、人の関係性においても大きな変化がある。
それは、昔の伝統的な結婚式において、結婚式とは親族を中心とした人々に対して公に結婚を表明する場として、儀礼的な役割を果たしていた。

しかし、近代化が進むにつれて、それは個人同士を重視して、「ご両家」から「ご両人」つまりいえのつながりから個人的な絆を重視しだしたのだ。
それまでの結婚式の出席者たちはみな新郎新婦の親族であったのに対し、いまや内輪だけの、友人と職場関係の人をよんで結婚式を行うといったものが多くなってきているのではないだろうか。

これにより、結婚式が儀礼というよりもむしろ一種のイベントとなってしまったのである。








実は似たようなことが葬式にもいえる。


なんでもかんでも本質的意味を忘れ去り、形だけを残すというのは非常に日本的といえるのではないだろうか。






明日朝一番これをゼミで発表する予定。

今はあまり時間もないのでかるーく、あさーく、自分が忘れないためのメモ的なものでメモ
また詳しくは後日書くとして


*行なう場所について
 自宅→専用の結婚式場→ホテル。


*宗教意識について
 神前・仏前→人前・キリスト教(無宗教)。


*雰囲気的なもの
 和風→洋風
 ・内掛けからウェディングドレス。
 ・和食から洋食。


*社会的スタンス
 「家」(ご両家)の重視→個人同士を重視。


*人間関係の中心は
 親族関係から→友人関係を重視。


*結婚式の規模や施行に対する感覚
 ハデ婚→ジミ婚





これを詳しく知るために今日はばーちゃんちに行って昔の写真をほりだして
80年前の写真から90年代前半のものまでを集めてみた。

おもしろくなりそうな予感。




乞うご期待星









たとえば・・・①


電車の中で、誰かが携帯電話で楽しそうにはなしていたとする。



われわれの多くがその行為を不愉快なものとしてみなすのだけれど

なぜ、「不愉快なモノ」として迷惑に感じてしまうのだろうか???



たとえば・・・②


電車の中で、誰かが一心不乱にお化粧をしていたとする。



われわれの多くは、不愉快に感じる。どんどん変貌していくその姿を見て。

しかし、これまたなぜ、いやなものを見た気持ちになるのだろうか???



これは非常に初歩的な社会学の理念をベースにしているのだけれども

私はほんのつい最近このちゃんとした理由というものを知った。

勉強不足。。。パンダ




①携帯電話での通話

私たちは、意識せずとも公的空間(すなわちこの場合は電車)において他人との距離を常に微調整している。人には密接距離、個体距離、社会距離、公衆距離というものをもち、これは相手との親密さや性別、年齢などで相手との距離をはかるものだ。

つまり、公的空間ではその公的空間にふさわしいふるまいをする、というのが暗黙の了解になっている。

反対に私たちは親密空間というものも持っている。その名の通り、親密な関係にある人々、たとえば家族などと過ごす空間である。ここでは先ほどの公的空間とは対象的なふるまいのしかたが求められる。
アメリカの社会学者ガーフィンケルは「下宿人実験」というものを行った。学生達に15分から1時間自宅で下宿人であるかのようにふるまって家族の反応を観察するといったもの。もちろん家族はその不可解な行動に当惑・・・この実験によって家族という親密空間で営まれている相互作用が、公的空間における相互作用といかに異質なものであるかを例証したのである。・・・・・・・・・なんかドッキリにひっかけられたみたいでいややわベル



さて、携帯電話の話に戻るが、この携帯電話というものは固定電話と比べるとわかりやすいけれど、電話が鳴ってから「どちらさまですか?」と相手を確認しなければならない固定電話に対し、お互いが番号を交換し合いかつ番号を交換するほどの仲である人からの電話なのだから、ある程度の関係であることがいえよう。つまり携帯電話による通話は親密な関係の中で閉じられているという特性をもっているのである。

上述の内容を踏まえて考えると、携帯電話で話している人は電車という公共空間に身体的に属しながらも同時に携帯電話を通して親密空間にも属している。そのことによって本来ならば(近代化の影響で)わけ隔てられているはずの公的空間を親密空間の区分をたやすく越境してしまうのである。

そのことに多くの人々がある種の違和感をもつのではないだろうか。


②化粧

これも①と同じく、公的空間で親密空間で行われるべき作業が行われているということだ。

しかし、ここで重要なのは、この化粧をしている人はまるで周りに誰もいないかのように自分の世界に没頭して、まさに他者を完全に無視し、消し去っているかのようである。

ゴフマンが唱えた「儀礼的無関心」というのがある。
われわれは電車の中で、見つめあったり、挨拶したりしない。お互いが(可能な限り)適度な距離をもち、新聞を読んだりメールをしたり、ほかの事に集中することで他者に対して無関心を装っている。これは人であるならばごくごくあたりまえのことである。

しかし、これがいきすぎた結果なのであろうか、究極的に無関心をつらぬくのが化粧だ。


「儀礼的無関心」は決して無視をするわけではなく、あくまでも無関心であることを装う一種の演技である。そにため車内で化粧をする女性を見て不快になるのは「自分が無視されている感じ」をうけるからであろう。このように公共空間の中で自分だけの世界に入り込んでしまうのは「離脱」とよばれる。豆知識キャンディー






これは長谷川公一編「社会学」1章を主に要約したものである。
すんごいわかりやすい本。



社会学ってオモシロイ、ほんとに合格