仏教思想に注意が向いている自分を迎えました。ずっと前になんとなくそう感じられましたがいつか仏教、いや、仏教の創始者と言われている仏陀の思想に合流する。理由は単純、論理を高度に操る純粋数学と、宇宙の原理を極めようとする理論物理学も、その一番奥底の究極原理(まだ発見されていないけど)、仏陀のニルバーナと、ごくわずかにしか現れていなくても、同じものなのではないかと、思い始めるのです。つまり、仏陀は、究極原理がわかると発言する最初、そして、唯一の人間でもあります。究極原理を見極める人は仏陀と呼ぶ。

 

宗派による仏教に興味を持っていないので仏陀(皆さんも知っているかもしれませんが、仏陀は固有名詞のように使われていても、実際、一種の状態を表す語彙です。目覚めた人という意味です)の“原典”を直接的に接したらいいと思ったらやはり間違いました。古代ギリシャの哲学者のプラトンのように書物が残るわけではなく、仏陀もやはり、ウェーダ文学と同じくもっぱら、口伝ですから文字の書物として残されてはじめて早くも、仏陀がこの世を去ってからあと400余年もの時間がかかっているのです。ヨーロッパの世界はこの最初に現れる、仏陀の教えを記録する書物を、Pali Canon(パーリ語による聖典?)と呼んでいる。つまり、どのようにしても仏陀の思想に直接的に触れたかった場合なら、仏陀と同時代の人間でなければなりませんでした。儚いものですね。これは。

 

辞書によるとニルバーナの定義は次のようですが、

 

“仏教では究極的目標である永遠の平和,最高の喜び,安楽の世界を意味する。”

 

これでニルバーナはまるで、天国のような場所のようですね。この“世界”には悪が純粋に消えて良しだけ残る場所。理解そのものは人次第変わっているんですが、あえて言ってみたら、ニルバーナって、もし、あなたはもはや、どこがニルバーナなの?なんでニルバーナを追い求めるの?そもそもニルバーナはいったい?というような質問、疑いを一切純粋に(そう、素直に、別にその問いかけの欲望を抑えるわけではないうえで)追い払って初めて、ニルバーナを少しでも感じられるのでしょうか?ニルバーナはそもそも定義は不可能だし、言葉で説明するものではない。いや、言葉で説明できないという言葉自体も不適切です。それでもちゃんと言葉ですから。ニルバーナへの人間的な理解として最善なものとして、知恵的な沈黙です。なんで沈黙?それは怪奇、神秘、恐怖主義そのものじゃなくてただ言葉によって納められるものではないためだけです。

 

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