ふっと思い浮かぶのですが、同種の商品で言えば、値段が高ければ高いほど、クオリティも高くなる。商品のクオリティは、使い勝手・ユーザーの満足度・より効率的な解決案の提供といった、高い値段を支える要素に貢献しているのです。この話は、マンション・アパートといった高価な不動産から、車ないし日常で必要ないろんな品物までも、道理に合っているのではないでしょうか。しかしながら、例外が発生しています。

同じ商品の一種にもかかわらず、本そのものは、この関係と逆になると思います。つまり、本は、その値段が高ければ高いほど、もし、本で言うクオリティがその読みやすさのだったら、クオリティも低くなるというおかしい結論になるのです。

刊行に使われる紙の質材といった本そのものを構成する部分を除いて中身にだけ集中するという話を念頭に入れる上で、次の二つの本を使って見比べようと思います。

古典ギリシア語のしくみ
著者:植田かおり
価格:¥1800

ギリシア語文法
著者:高津春繁
価格:¥7500

もちろん、本全体でその中身を見比べることは難しいのでごく一部だけ行うことにする。上述した二つの本から同じ文法の項目を説明する箇所しか抜粋しない。

まずは、古典ギリシア語のしくみ

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次は、ギリシア語文法

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読んでみてくれた皆さんはどう思いますか?説明の方法はお互いもかなり違ってくるけど同じことを説明しているものです。ギリシア語には日本語と同じく、高低アクセントを有する言語なので何らかのパターンでアクセントが働いているのです。別に説明の方法とその内容を考慮に入れなくてただ一般の文章としての読みやすさで評価してみたらやはり、より安価な古典ギリシア語のしくみが勝ち抜くでしょう?本はそんな性質なものです。せっかくの大金を払っていてもすぐに効果を収めるわけではないし、かえってつまずく場合はしょっちゅう。私の場合では、たった後者のギリシア語文法のイントロの部分を読んですぐに断念して放置になってしまったが、最近までその読書に再び、挑戦しています。一週間に数ページくらいの速さだけど(汗)これでユーザーの満足度や愉快さはともかく、この本がいったい何なの?って読めば読むほど、分からないところが蓄積してばかりいて焦っちゃいました。


重すぎるギリシア語文法(実は、これは文法書よりもむしろ、言語学の研究書に近いものだと思います)はここで終わりますが、より親しい古典ギリシア語という本を少しでも読み続けてみたいと思います。

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西洋文学と深く関わったためか、古典ギリシア語の学習はほとんど、西洋人に限定するものという印象にもかかわらず、これらの古典言語に似ている部分は日本語にはたくさんあると思います。確かに著者さんの言ったとおりに、ギリシア語の配置の自由さと「てにをは」の系統も複雑でやっかいかもしれませんけど、日本語も同じだと思います(笑)日本語話者にとっては生まれから親しくなるので日本語の複雑さを忘れたのですが、格についての説明を例に言えば日本語は英語よりも圧倒的な優位を占めているのではないでしょうか?英語母語話者がギリシア語の「てにをは」を学ぶとしたらどうなるんでしょうか。彼らは最初、

Nominative
Genitive
Dative
Accusative

といった英語文法ではあまり出てこなかった用語とぶつかる必要はある。もちろん、よりわかりやすい言葉も可能なんですけど、

Subject
Possession
Indirect object
Direct object

のようにそれぞれのラテン語語源の文法用語が転写できる。でもやはり煩わしいと思う。逆に日本語で同じ文法を表したら単純明快!「てにをは」(なんで著者さんが“てにをは”という用語を選ぶのかについて外人だからよくわからないけど、日本語なら一対一の用語も可能なはずだったのに、たとえば、“がのにを” ぎこちない用語かな??)で済む。日本語話者にとって“がのにを”といったものに慣れ親しむはず。こんな感じで英語話者よりも優位を示しているわけです。ふいにギリシア語の学習を押し付けるような文章になっちゃってごめなさいm(_ _ )m

著者さんの意見によれば

「でも、考えてもみてください。しくみが多いということは、その分だけ、文意は明確となり、曖昧になりにくいということです。」

と書いてある。

古典ギリシア語と接触したとき、驚くべきくらいの数で形が変化する言葉に圧倒されて、孫悟空のように72種類の変化を有するギリシア語の言葉だからこそ、曖昧さといった言語でのやっかいな場面を避けているはずだったのに…その変形自体はしばしば、曖昧さに大きく貢献するのも事実…

おもしろいことに、一般の場合では、断定文の構築が一番易しいから言語学習になるとしばしば、そこから習い始めるのではないか?日本語の学習で言えば最初に学ぶべき文型として、「…は…だ/です」という文型に決まっています。でも、古典ギリシア語の場合ではその話が通用できないようです。また古典ギリシア語のしくみから説明を借りています。

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確かに、著者さんの説明に従って進んだら、あ、そういうことだと納得がいけるかもしれませんが、実は、古代のギリシア人は断定文(名詞文)で作文するのが好きだと言われているのです。その原因はよくわからないけど大胆的な発想があります。断定文ならではのあいまいさを活かせようとするのかもしれません!あいまいさは表現の豊かさそのものですから。日本語訳のとおりに「美しいパイドロスである」と「パイドロスは美しい」との違いは微妙ですし、とにかく決定的な違いではありません(文の形なら日本語が決定的な違いが出てくるけどね)。こういった「違いは違いけど大した意味の差が出てこない」の区別、実は、やっかいのやっかいですよね?語順は自由だから言葉と言葉との関連付けは、格語尾(著者さんの言ってた「てをには」しくみ)によって決まっているはず。動詞文なら主語が「が」の語尾を取って、目的語が「を」の語尾を取ることになる。でも断定文なら話がやっかいです。というのは、主語にしても述語にしても同じ「が」の語尾を取るのです。それをあえて日本語で表現してみたら次のようになる。

金持ち彼、もしくは、彼金持ち

以上のように主語も述語も名詞でただの名詞の連続でした。ということで、「金持ちは彼です」と、「彼は金持ちです」はもちろん、「金持ちの彼」も可能!“このくらいの違いは大丈夫でしょう?あんまりこだわる必要はないよ”ように思われるけど、ギリシア語のあいまいさを十分に示している例だと思っている。

まあ、全然おもしろくない話ですみませんでしたm(_ _ )m