このアニメは少しでもカナやんとつながっているのですが、ナルト疾風伝というアニメですね。そして、その中の一人のキャラに夢中になっている。
うちはいたち
このキャラは主人公ではないし悪い奴を演じ続けるけどおそらく、漫画の著者に一番似ているキャラと勝手に思うときもある。なんだかんだこのキャラだけは特別な存在という気がする。
余談ですが架空のキャラにもかかわらず誕生日と血液型と星座もちゃんと著者が設定してくれるのですが、そのうちはいたちの設定として:
誕生日:6月9日
星座:ふたご座
血液型:AB型
事前にその設定を知らなかったけど好きなキャラの設定がこんなに自分と近いなんて本当に不思議…知らず知らずのうちに自分と似ているものが好きになる、たとえそれは存在しない者であっても、というわけか(笑)
そして、そういう実際に存在しないキャラの言ってた台詞の中では一つだけ、すごく気になっている。
「見た目や思い込みだけで人を判断しないほうがいいよ」
それはそうだけど私たち人間は、どのように客観的な分析をしていても結局、見た目や思い込みだけで人を判断するしかないのではないでしょうか?逆に言うともし、見た目や思い込みにも頼らないとしたら、人はどうやって、他人のことを判断すればいいのかという疑問になるでしょう?
見た目が最初に目に映ってから映像データができあがり、自分の経験や学校で学んだ思考パターンを利用してその光による映像データを再構築して、一つの形のないコンセプトが脳内に思い浮かび、そのできたコンセプトをまた自分自身の持った思い込みと比べて見てから分析し、どの部類の経験に属するのか、どのように評価するのか、そのような分析が終わったら記憶に残る。それらの比較の基準となるものこそ、かつて出会ったそれぞれの物事や出来事の「見た目」を分析して蓄積してきた「思い込み」によって作られることになる。物事はいつも、「見た目」という姿として初めて目に映り、そして、その見た目を記憶するためには「思い込み」に変わらなければならない。どの考え方をしても、「見た目」や「思い込み」は、人を判断するには必要不可欠な要素なのではないでしょうか?
つまり、この台詞を、人間の思考を超えるものだと評価してもよさそうです!
煮詰まった理解だったが、今こそ、ピンと来るときがやってくる(笑)
元の台詞
「見た目や思い込みだけで人を判断しないほうがいいよ」
を、次のように転写したらいいと思います。
「見た目や思い込みをバランスよく取りながら人を判断したほうがいいよ」
ということになる。
言い換えると、「見た目」と「思い込み」を、一直線の両極端を見なしているというわけです。完全に思考が抜けてただの直感で行動するのは「見た目」、そして、深読みで考えすぎるのは「思い込み」としてもよい。これで人を判断することは、考えの時間の調節という話になるわけ。この人をどれくらい時間を使って考えればいいのかと見込みを断定し、見た目1->思い込み1->見た目2->思い込み2…見た目n->思い込みnというように、同じ対象への見た目と思い込みのアップデートや更新を繰り返して行うのです。これはまるで、振動の頻度を無限に高めると見た目として中間にあるように見えると同じ話です。というのも、振動という動きはいつも、一点を中心に左右に揺れ動いている。そして、振動数が多すぎると左右への移動は残像のように見え、中心だけ実在であるわけです。じゃあ、こうだったら最初に動かずに中心にあるままであればいいんじゃないと言うと、それは、左右への広がる幅がなくなるためバランスがとれるという話もなくなっちゃうことになる。
ということでバランスを取るということは、静的なステータスじゃないくて数えきれない揺れ動きこそ再現できるもの!
ああ、こんな風に変な論じをするのは本当に久しぶりですね(笑)
うちはいたち
このキャラは主人公ではないし悪い奴を演じ続けるけどおそらく、漫画の著者に一番似ているキャラと勝手に思うときもある。なんだかんだこのキャラだけは特別な存在という気がする。
余談ですが架空のキャラにもかかわらず誕生日と血液型と星座もちゃんと著者が設定してくれるのですが、そのうちはいたちの設定として:
誕生日:6月9日
星座:ふたご座
血液型:AB型
事前にその設定を知らなかったけど好きなキャラの設定がこんなに自分と近いなんて本当に不思議…知らず知らずのうちに自分と似ているものが好きになる、たとえそれは存在しない者であっても、というわけか(笑)
そして、そういう実際に存在しないキャラの言ってた台詞の中では一つだけ、すごく気になっている。
「見た目や思い込みだけで人を判断しないほうがいいよ」
それはそうだけど私たち人間は、どのように客観的な分析をしていても結局、見た目や思い込みだけで人を判断するしかないのではないでしょうか?逆に言うともし、見た目や思い込みにも頼らないとしたら、人はどうやって、他人のことを判断すればいいのかという疑問になるでしょう?
見た目が最初に目に映ってから映像データができあがり、自分の経験や学校で学んだ思考パターンを利用してその光による映像データを再構築して、一つの形のないコンセプトが脳内に思い浮かび、そのできたコンセプトをまた自分自身の持った思い込みと比べて見てから分析し、どの部類の経験に属するのか、どのように評価するのか、そのような分析が終わったら記憶に残る。それらの比較の基準となるものこそ、かつて出会ったそれぞれの物事や出来事の「見た目」を分析して蓄積してきた「思い込み」によって作られることになる。物事はいつも、「見た目」という姿として初めて目に映り、そして、その見た目を記憶するためには「思い込み」に変わらなければならない。どの考え方をしても、「見た目」や「思い込み」は、人を判断するには必要不可欠な要素なのではないでしょうか?
つまり、この台詞を、人間の思考を超えるものだと評価してもよさそうです!
煮詰まった理解だったが、今こそ、ピンと来るときがやってくる(笑)
元の台詞
「見た目や思い込みだけで人を判断しないほうがいいよ」
を、次のように転写したらいいと思います。
「見た目や思い込みをバランスよく取りながら人を判断したほうがいいよ」
ということになる。
言い換えると、「見た目」と「思い込み」を、一直線の両極端を見なしているというわけです。完全に思考が抜けてただの直感で行動するのは「見た目」、そして、深読みで考えすぎるのは「思い込み」としてもよい。これで人を判断することは、考えの時間の調節という話になるわけ。この人をどれくらい時間を使って考えればいいのかと見込みを断定し、見た目1->思い込み1->見た目2->思い込み2…見た目n->思い込みnというように、同じ対象への見た目と思い込みのアップデートや更新を繰り返して行うのです。これはまるで、振動の頻度を無限に高めると見た目として中間にあるように見えると同じ話です。というのも、振動という動きはいつも、一点を中心に左右に揺れ動いている。そして、振動数が多すぎると左右への移動は残像のように見え、中心だけ実在であるわけです。じゃあ、こうだったら最初に動かずに中心にあるままであればいいんじゃないと言うと、それは、左右への広がる幅がなくなるためバランスがとれるという話もなくなっちゃうことになる。
ということでバランスを取るということは、静的なステータスじゃないくて数えきれない揺れ動きこそ再現できるもの!
ああ、こんな風に変な論じをするのは本当に久しぶりですね(笑)