こんばんは🌸愛の扉ソフィアです
今日のソフィア地方は比較的暖かな1日でした。今日は、孫のトントンの保育園で、節分の豆まきの行事があり、祖父母さん達が参加できるということで、今年も参加してきました
今日で、豆まきに使う小さな箱が3つになりました。早いもので、トントンが保育園に行って3年が過ぎたんだなあと感慨深いものを感じました。もう4月からは1年生。
ついこないだ生まれたような気がするのに、早いものです。
これも、そんなことはなかったかのように、今しかないという感覚がします。
過ぎ去った日々の出来事は経験として魂に刻まれ、そして消えていく。1日1日が終わったら消えていく。
それは本当にあったことなのかさえ、もうわからない。
一昨日のことだったか、、、
今回は、「捨てる美学」という言葉が今度はメッセージというより、ただ浮かんできた。
それは、先日私はとても嫌な出来事があり、今回は珍しく言い合いになるような出来事でした。
ああ、、まだまだ私はすぐに反応してしまうんだなと思っていましたが、
それが、意外と今までになく、消えていくのを体験しました。
私の中のエゴはそれでも時々現れます。
色んな感情が湧いてはきます。
でも、それが、前のようにいつまでも留まっていないのです。
あれれ???不思議
そして、そんな時に、「捨てる・・・」という言葉が浮かびました。
それは、その相手との関係を捨てるとかではなく、
私の中でのその出来事や、それにまつわる感情も捨てる
という感じです。
そうゆうことも、今では私の意思ではなく、自動的にそうゆう感覚になるという体験です。
自動的・・・それでも、そう決めたのはソフィアでしょ??というのを、ある人はいいました
いいえ、そうじゃありません。私が捨てようとしているのではありません
勝手にもう自動的に、捨てるということになっていることに気付くのです
気付いているのを体験しているのです。
その体験は、一層私のもやもやしていたり、肉体の緊張を和らげてくれました。
そして、
ひとつ
ふっ
と笑いが出ます。
なんの笑いでしょうか
そう、何もないという笑いです
ふっ・・・・・
捨てる・・・
さっき書いた美学というのは、よくある言葉で、それはきっと、捨てるという言葉が浮かんできたので、それに合う言葉を後付けした形になっったと思うのですが、
それでも
いいかな
捨てる・・・物質的なものを捨てるのではなくて、
私というものが必要としないものを捨てるということです
ですから今回の場合も、相手さんとの色んなやりとりがあっての、色々な出て来る感情は、必要のないものですから
捨てる。
出てきたらまた捨てる
ただそれだけの事。
それだけでなく、他にも出て来る感情をただ捨てる
本当に楽になります。
(でもでもこれって、なかなか頭ではわかっていても、実際はとても難しいと思います。)
捨てるといっても、何かよくいう、箱に入れて蓋をして宇宙に飛んでいけ~~とか、そうゆうイメージするのではない
ただ、捨てるって、意識するだけ。
余分なものは捨てるだけ。
エゴとかそこまでにも、いかないものだから・・・
ほんとに単なるなんやろ、なんてゆうたらいいんやろ、
単なる、食べかすみたいなものかな
必要なものはちゃんと魂に刻まれてあとは、カスやからそれは捨てる
笑
理解が出来たら、あとは、「捨てる。」と意識しただけで、不思議とそうなるのだ。
もしそうならないとしたら、まだ、色んなこだわりがあって、理解の扉が開いていないからだ。
今回のことだけでなく、今までのあったことへの感情(カスもエゴも含め)は、ふいに、、、突然色んな場所で、出てきますが、
全ては、魂の経験として刻まれるだけで、あとは、あったのか無かったのか、、、です。
本当に今しかない
過去が知りたければパラパラとめくってその頁をみればいいし、(でもそれももう過ぎ去り、終わっているから単なるイメージに過ぎないでしょ)
未来はどうなんだろうね
未来も見たい頁をみたらいいのじゃないかな(それもイメージ)
どんな過去も未来があったと思っていても、、結局は今しかないし。
その過去に影響力はないと思えばいい。振り回される必要はない。
全て必要なことが起こり、消えていくだけだ。
今、今、今、、、の繰り返し
生まれては消える
生まれては消える
消えては生まれる
消えては生まれる
だから、
執着しても意味がない
それは自分を苦しめるだけのこと イメージに苦しんでいる
捨てるというと、なんか、あまりいいイメージがないように思えるけど、
実はそうでもない
言葉に対する植え付けられたイメージの力って強力だね
いい悪いまでつきまとうし。
そうゆうイメージも捨てると、楽になる。
どんどん捨てて行こう。
私たち、年をとるごとに、どんどん捨てていこう
決めつけない、拘らない
もっとのびのび生きて行こう
当たり前のことだけど、人生は一人一人違う、課題や目的も違う、生まれた所も環境も違う
道のりも景色も違う 全く別世界に感じることも普通にある。
よその国で起っていることは、実感がわかないのは、自分に関係がない世界は別世界。
だから、
今生きることの中で、捨てるとか、幻想だとかに全く興味がない人もいて当たり前
興味がないどころか、間違っていると思う人もいて当たり前
生きることの中で何を重要視して生きるのかも全くそれぞれだろう。
でも、私は今ここにいて、今、話したいことを書いている
それはそうしたいからとかでもなく、
そうなっていることに、ただ委ねはじめているだけなのだ
理解されにくいかもしれないが、
私は私の意思でしていることも、勿論ある。
ご飯を食べようとか、寝ようとか、それは自分の意思で動いているけど、
自分の意思を越えたところにあるものが、確かに存在し、
それが自動的に動いていることを今、今、今で体験し始めているのである。
だから、「わたし」というものは、本来の存在ではないことも体験し始めています。
ですから、あまり「わたし」という言葉を使わなくなってきたような気がします。
「わたし」というものを越えた存在は
揺らぎであり、
振動であり、
色である
この3つは、ずっと前の体験の中で、突然大いなる何かの呼吸を感じた時に
聴こえた言葉です
揺らぎの中で、ゆらゆら揺らめいている・・・
この肉体はなんの為にあるのか??
この揺らぎと振動をこの肉体で示すためにある
そして
苦しみの実体は何か
それを、この身を持って、この世で示すためにある
なんかようわからんけど、
あ、そや、
地に足ついてへんとか???
そうでもないよ
それどころか、逆に
地に足つきすぎて、困るくらいです
ほんまか、、、笑
盲目になってるんと違って逆にとても現実的です。
これって不思議な気がするけど、
そんなもんやねん。
いやほんまに。
じゃあまたね👋