最近ともかく、「死」が怖くて、怖くて仕方がないのです。

 人により、その恐怖の種類は変わるようですが、死後どうなってしまうのかわからないという点が私にとってとりわけ怖いのです。

 単純な宗教的な死後の世界を信じることができればよいのですが、現代科学の下に生きてしまっている、しかも全く浅い知識しかない私にとって、「死」とは、この身体が果てて、かたちを持たなくなり、原子の集合として離散してしまうとしか考えられないのです。魂などといったものは全く私には信じられないのです。

 その上で、そうした自然と一体化した私が、綿々と限りなく長い時を経て、有機物となり、また人間でなくとも何かの血肉となり、生の一部となる。このことには私を納得させるだけの説得力があるのです。死後、意識がなくなり、また自然の摂理で「生」となったとき、意識が新たに再生産されるかもしれない。多くの宗教でいう生まれ変わりも、この仮説に、過去の者たちがたどり着き唱えられたものなのではないか、とは私は考えられるのです。

 ところが、そうした希望も、地球はいつか崩壊するという確からしい仮説によって、しかも地球が太陽に飲み込まれるのはたった数十億年先というのではありませんか!これでは私が新たな生命体となるには全く足りない時間のように思えるのです。

 あまつさえ、宇宙もいずれ崩壊するというのではありませんか!やがて一つの原子さえ消え去ってしまう。すると、すべての生物がここまで「生」に執着して遺伝情報を組み換え進化させていることさえ、ただただむなしくなってしまうのです。

 最近この考えに呪いのように取り憑かれてしまい、日々の生活の中などでも、情緒が抑えられなくなってしまうのです。

 

 この問いに関して、解答過程はともかく、解は「置かれた状況がどうであれ、今生を目いっぱい、納得できるほどに生き抜く。そして死ぬ。」となるようです。その通りだと思います。

ニュースやネットでちょっと「死」の話題について触れる機会が多かった。あるいはちょっと仕事内容が変わってこんなことを考えているのかもしれません。身体がある程度不安ないのにかかわらず、この問いが私に呈示されるということは、何か満足できないことがあるのではないか。そういうものなのかも知れませんね。

確かに、自身の現在の経歴には満足していない部分もあります。しかし、その中でも自分のできる能力を発揮して、社会の中で活躍しているつもりです。つもりだけなんでしょうね。

「愛」や「情」を込めて生きてないのではないの?これはそうかもしれませんね。なんかそんな気もします。いつも別の誰かがわたしの体を借りて話している気によくなります。

 

とりあえず、明日、心を病んでしまってはいけないと思います。無性に気が晴れているときもあるし、せっかく体が病に今倒れているのではないのだから、しっかり考えられない、心が体を先に傷つけては本末転倒だと思います。しかし、ただ単に、眠って食べて飲んで、ちょっとした偉人の言葉や作品ではこの問いは解決できないと感じるのです。やはり自律して模索しないといけないのではないかと何の根拠もなく思うのです。

ということで、この問いと解を埋めるための答案用紙に私は「今、目の前に頑張らなければいけないことに一生懸命打ち込む。」「気持ち、気合を入れて生きる」「悩めないほどの生きがいを見つける」くらいしか書き入れられません。しかし、ふとなんとも力が入らず自身が浅薄に思えてどうしようもないのです。これを人に言ってどうにかなるんでしょうか。phoenix-scene3.gif