《大丈夫は世の中と共に流れて行つてはならぬ。「男子は人を容れ、人に容れられては濟まぬものなり」と言ふのも此の意味に外ならぬ。日本６０餘（余）ヶ國のうち、６０ヶ國までが賊軍となった時、楠氏の一族は僅かに和泉・河內２ヶ國の勢を以て凛然（りんぜん）錦旗（きんき）を奉護したてまつゝたのだ。數（かず）の問題でなく、大義の問題であるのだ》（影山正治『大西郷の精神』（大東塾出版部）、p. 112）

　『孟子』にも、有名な「千万人と雖もわれ往かん」（＝良心に恥じるところがなければ、千万人の敵に対しても恐れることなく向かっていこう）の一節がある。

昔（むかし）者、曽子（そうし）は子襄（しじょう）に謂（かた）りて曰わく『子は勇を好むか、われは嘗（かつ）て大勇のことを夫子（ふうし＝孔子）より聞きたり。自ずから反りみて縮（なお＝直）からずば、褐寛博（かつかんはく）のうちと雖（て）もわれは惴（ゆ＝往）かず、自（み）ずから反りみて縮くは、千万人のうちと雖もわれは往かん。』と。孟施舎（もうししゃ）の気を守れることは、又曽子の約を守りしことには如（およ）ばず。」― 『孟子』公孫丑篇第２

（「自ずから反りみて縮くんば、千万人と雖もわれ往かん。」内に省みて天地に恥じない自己を見出すなら、何の恐れることがあろうか。曽子が弟子の子襄に伝えたこのことばこそ、まことに孟施舎らとは比べものにならない大勇の説であった。不動心を得るのに、第一の方法、最も要約を得た方法、それもまたここに示されている。それは、自己の内心を曇りない公正な状態において、そこに絶対の信頼を置くことであった）― 金谷治『新訂中国古典選孟子』（朝日新聞社）、p. 81

　戦前は、親天皇の時代であったので、屈指の忠臣たる楠木正成が褒め称えられることが多かったが、戦前を否定する戦後は、楠公（なんこう）の名を聞くことは少なくなった。が、この問題は、楠木正成が名将であったかどうかではなく、たとえ「多勢に無勢」（＝「多人数の相手に対し、少人数の軍勢では勝ち目がないこと」）であろうとも、義を貫こうとする意志は尊いものだということである。結局、少数派は多数派の軍門下らざるを得ないなどと端から諦めてしまっては、世の中は腐るだけだ。淀んだ水は入れ替えねばならない。

《こゝには堯舜を手本とし、孔子を敎師とせよとあるが、本當（ほんとう）はこれではいけない。よろしく日本武尊（やまとたけるのみこと）や護良（もりよし）親王を手本に仰ぎ奉り、淸麿・楠公・松陰等を以て師となさねばならぬ》（陰山、同）

　ちなみに、護良親王は、後醍醐天皇の皇子で、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての僧侶であり武将でもあった人ですが、日本人が手本として仰ぐのは日本の歴史上の人物であるべきで、古代シナの伝説上の帝王、尭（ぎょう）と舜（しゅん）ではなく、日本武尊や護良親王のような人ではないかというのは一理あると思われます。が、皇国史観を嫌った戦後の歴史教育には、手本と仰ぎ見るような人物は見当たらないでしょう。日本武尊や護良親王などといっても、名前すら知らないでしょうし、和気清麻呂、楠木正成、吉田松陰を師と仰ぐ理由も見付からないでしょう。

『西郷南洲遺訓』を読む（67）千万人と雖もわれ往かん