11.13 お説教のお言葉

 

🌿 「エリ エリ ラマ サバクタニ」——

これはイエス様が十字架の上で叫ばれた、

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」

という言葉です(マルコ15:34)。

 

この叫びは、当時のユダヤ人にもギリシャ人にも理解しがたいものでした。

しかし、この深い絶望の叫びこそが、私たちが新しく生まれるために必要な出来事でした。

イエス様は大きな扱いを受けるために来られたのではなく、

私たちの罪の代価を払うために来られ、

実際に「捨てられる」ことを通して

私たちを神の家族へと迎え入れてくださったのです。

 

人は理屈であれこれ考えますが、

罪人の特徴は、自分が罪人だと気づかないまま、

罪のない方を裁いてしまうことです。

結局、イエス様を十字架につけたのは罪ある人間たちの“合作”でした。

 

ですから

「イエス様が私のために十字架につかれた」

というこの一つの事実が信じられた時、

はじめて私たちはキリスト者になります。

イエス様の“死と復活”というこの一つの福音だけが

世界で唯一の“グッドニュース”であり、

それ以外はすべて“バッドニュース”に過ぎません。

 

この福音が、私たちの罪悪感や弱さを取り去り、

人類の歴史を BC と AD に分けました。

人生の試練や環境、成功や失敗は本質ではありません。

大切なのは、

福音に従って生きるか、

そして神さまの前でどんな存在として歩むのか

ということです。

 

多くのクリスチャンは苦しみのない人生を望みますが、

イエス様ははっきりと

「世では苦難がある」

と言われました。

神さまは痛みを免除してくださらない時も、

理由を説明してくださらない時もあります。

けれどイエス様は“答え”を口で示されたのではなく、

ご自身が苦しみを背負い、

私たちと共に歩むことで答えになってくださいました。

 

苦しみを避けたいだけなら、信仰は向いていないのかもしれません。

イエス様に従うとは“自分を否定し、十字架を負う道”であり、

イエス様がその道を先に歩かれたからこそ

「わたしに従いなさい」と言えるのです。

 

どんな苦しみの中でも、ヨブのように信仰の告白を失わないこと。

祝福を与えてくださる方が神さまなら、

時に苦しみを許されることもある——

それを受けとめる信仰こそ本物です。

望まない状況に置かれても、

神さまはその中に“善き道”を必ず開かれます。

 

十字架は、苦しみのただ中でも

神さまが共におられることを示しています。

イエス様が盲人を癒された時も、

過去や環境を責めるのではなく、

「この人を通して神のみわざが現れるため」

と言われました。

私たちの生まれや背景がどうであれ、

その場所で神さまは働かれます。

それが分かった時、

すでに人生の目的と意味を手にしているのです。

 

最後の叫びの後、イエス様はすべての使命を果たし、

「完了した」と宣言され、

私たちのための代価を完全に支払われました。

だから、その御名を呼ぶ者はもはや世に縛られません。

信仰とは、苦しみが消えることではなく、

イエス様と共に苦しみを歩み抜く“力”を得ることです。

 

私たちの最終的なゴールは、神さまのもとへ帰ること。

目的地がはっきりしていれば、

どんな苦しみも私たちを揺るがすことはできません。

 

イエス様と出会う時、

世の中では得られないものが心に満ち、

消えることのない“神さまの火”が胸の奥で燃え始めます。

その火があれば、どんな嵐も怖くありません。

神さまは、私たちが望む港ではなく、

神さまが望まれる港へと導かれます。

 

たとえペテロのように失敗しても、

イエス様は私たちを回復させて

「わたしについて来なさい」と再び招いてくださいます。

本当の成功とは、自分の道ではなく、

イエス様が導かれる道を歩むこと。

人生をあずける時、

すべてが益となり、

真の自由を持つ信仰者へと造り変えられていきます。

 

そして信仰とは、

誘惑に勝つ力、

苦しみに勝つ力、

そして最後には“自分自身”に勝つ力です。

最後に、私たちが戦わなければならない最大の敵は、まさに自分自身です。

イエス様もゲッセマネで十字架を避けたいという人間的な苦しみや欲望と戦われましたが、最終的には自分の意思ではなく、父なる神の御心を選ばれました。

もしイエス様が十字架を拒み、嘲笑に心を動かされて降りられたなら、今日の私たちの救いは存在しませんでした。

イエス様が最後まで恥と苦しみに耐えられたからこそ、私たちは救いを得ることができ、人生を新しい視点で見ることができるのです。

だから、自分を狭い視野でしか見てはいけません。

 

世の中には人が作った神々がたくさんありますが、苦しみの時には何の力にもなりません。

しかし、私たちを創造された神様は、苦しみを取り除いてくださるわけではありませんが、その中で私たちの手を握り、一緒に歩んでくださいます。

私たちの苦しみは、神様から与えられたものではなく、罪に満ちたこの世での現実から生じることが多いです。

しかし神様は、その苦しみを乗り越える力を与え、聖霊によって私たちを日々満たし、苦しみの中でも世の中が与えられない喜びを体験させてくださいます。

 

そして、私たちがイエス様に人生を委ねると、イエス様は一歩ずつ主の道へと導いてくださいます。

イエス様と共にいる時にだけ、すべてのことが意味を持ちます。

しかし、もしイエス様から離れるなら、私たちが作ったバベルの塔も、掘った穴も、張り巡らせた縄も、結局は崩れ、私たちを縛ってしまいます。

しかし、全てを委ねるなら、すべてのことが益となり、私たちは最も自由で、真理の中で自由な信仰者として造られるのです。