自分はありがたいことに優しいと言って貰えることがあるんだけど、こういうことを言っては言ってくれた人に対して恩を仇で返すような行為になるかもしれない。

でも、優しいは本当に褒め言葉なのかと思ってしまう事がある。


僕自身優しさを振りまこう、こうしたら優しいねなんてことを考えて行動してるわけじゃないんだよ。当たり前だけど。

まあ色々と優しさというものについて考えた。

その結果行き着いたのは"自分の人生にとってその行動をしなくて悔いがないかどうか"だった。

ちなみに僕の言う優しさは時には怒ること、明らかダメな道へ行くことを止めるというものではなくて、温厚で寛容系のことを指してます。

好感度がどうとか、正直どうでもいい時はどうでもいいし、それよりか誰かを結果的に助ける、その人が僕の行動によりいい方向にいったという事実が肝心なわけなんです。

その方が単純に気分がいい。見方が違えば僕の行動はありがた迷惑なのかもしれないしね。それはどうか分かりません。


でも、僕が人に対してすることは基本的に自分がその行動をしなくてこれからの人生モヤらないかということ。

僕がそれをすることにより円滑に物事が進むなら、それに越したことはないし、それは多かれ少なかれ誰かのためになってると信じてる。

確固としてしたくないならば話は別だけどね。


僕が優しくしたのだから優しくされるべきだとは思ってなくて、まあ挨拶した時に返さないのは如何なものかとは思うけどね。

まあ何より笑えたらいいよね。楽しいならなおよし。


何度も言いますが、この長くも短い人生、人を恨んで終わるのはなんだか自分の人生って感じしなくてさ。誰か、何かを恨んでそれが自分だと言うなら別に何も言わないが、人間は考えることも、憎むことも、恨むことも、笑うことも、喜びを分かち合うこともできるのなら。

僕は笑いたい、達成感を味わいたい、喜びを分かち合いたい。なんて言う綺麗事的人生を送りたいなぁ。


まあ今病んでないからこんなことが言えるのかもしれんが。


てか、この世の中、というかこのインターネットの世はいいことをした人に対して偽善だと言う人が多い印象にあると思う。僕が見てるのがアングラなちょこっとドロドロとしたところなのかもしれないが。

見えない優しさがホントなのかしら。

分からないよね。見えないならそこで殴ってても、殺してても、優しくしてても、分からんわけだし。

貧しい子供たちやホームレスの人に食べ物をあげることや、何かを助けること。

それを動画にしてインターネットに出したりする人いるけど、そこにはその食べ物を食べなければ今までもこれからも変わらない日々が遅れていたのに、とか。その一日だけの幸せは何にもならないとかマイナスになるとか。

まあ一理ないことは無いんだけどさ。

でもこれに関しては僕が入れるような問題じゃないんだよな。

でも、その瞬間でも幸せのリミッターが今までより上がったなら、それはそれでいいことなんじゃないかとも思うよね。その子たちが笑ってるなら、とか浅はかなことを考えてしまうのよ。おバカでごめんね。


つか話変わりすぎ。


優しさというものは難しいね。

でも最近はもうなんかどうでも良くて、たとえ自分が上手いように使われていたとしても、その子が助かるなら、その子が苦しまないならいいのかもしれないとか思うようになった。

僕だって偏見は持つし、身震いするような嫌なことだってある、苦手な子だっているけど、最終その子が笑える時があって、生きてるならオールオッケーかも。とか思うのよ。

優しさじゃないけどそこに関しては。単純に恨みつらみなんてものは生の上の娯楽のようなものに過ぎない。

清廉潔白で善良な人間なんて居ない。ちょっと恨む、ちょっと嫌いなんてことはざらにあるし。


笑顔が安くても、なんかいいやって思う。

ギャップもクソもない人生。魂はいい子だよ。それを取り巻く塗装はなかなかにファンキーかもしれないがね。笑っておけば、よっぽどの捻くれ者以外は変にマイナスには思われないだろうし。ただ口角が上がってて、目が三日月目になってるだけでも、癒されるものはあるし、救われるものはあるよね。


毎度の如く話が二転三転してて申し訳ないな。脱線するほど色々思ってる、なんて上手いこと思っておいてほしい。


締めがいまいちだがとりまここで第六回終了。またね。