弄る風。
今日の空には半分の月が溺れている。
消えるでもなく、己の存在を主張するわけでもなく、しかし頼りなさそうに埋もれていた。
いつもの乱暴さが嘘のように、翼は丁寧にバイクを走らせていた。
後ろに人を乗せることなど珍しくもないのだが、やはり乗せる人物の重要度の問題だ。しかも相手は夜遊びなどしない純粋な中学生。普段は粗雑な翼でも、気を使う。
いつもより風が鬱陶しいのはそのせいか。まるで憂鬱な気分を逆撫でするようだ。
流れるテールランプの渦も、今日はなぜか煩わしい。
病院から自宅まではそんなに遠い距離ではない。
だから本当はこんな面倒な役目はさっさと終わらせて、そのまま逃げたかった。
それが許されないのは、乗せている人物が翼にとって最重要人物といっても過言ではない人物だからだ。
つい数時間前に目撃した事象。
それはその「最重要人物」が自宅の三階のベランダから落ちる光景。
その瞬間、助けなければと強く思い、それ以外の感情などなにもなかったのにもかかわらず、少し冷静になると途端に怖くなる。
もしあの時、自分が帰宅しなかったら。
もしあの時、自分の手が届かなかったら。
本当は怖くて仕方がない。それを考えると体が震えるほどの恐怖。
しかし、自分をしっかりとつかむ細く白い腕の感触が、先程から翼を安心させていた。
(無事だったんだ…)
そう強く確認していなければ、まともにいられるのかすら危うい。
だけれど、そんな自分を認める勇気は翼にはなかった。
バイクが走る道から次第に明るい照明が少なくなっていく。
この坂を上れば、自宅に着く。
まるで高価な白い陶器が落ちて散らばるように、マリアが壊れると思った。
その場所に少しずつ近づく。
豪快な音を立てて、バイクが止まる。
無事に自宅前までマリアを送り届けた翼の役目は、ここで終わりだ。
だからできればこのまま自宅の門をくぐらずに出かけたかった。
目でマリアに家の中に入るように促す。
しかし、そんな翼の胸中を知ってか知らずか、マリアは動かずに立ち尽くしている。
少し苦笑して、翼は彼女の目の前で目線を合わせるように屈んだ。
「早く入れ。寒いだろ」
「……」
「……」
葉がゆっくり、かさかさと舞う。何かが暗闇を通り過ぎる。
窓から灯りがちらちらと揺れ、漏れている。
吐く息が白い。
自分を見返す瞳は、この夜闇よりも深く、透明。
しばしの沈黙に耐えられなかったのは、もちろん翼だ。
「あーわかったわかった!はいはい帰ります帰ります!帰ればいいんだろっ!!」
半ば自棄になって翼は玄関へ向かい、その後に少し笑いながらマリアが続いた。
自棄を起こした勢いのまま、翼がドアを開ける。
予想通り、鍵はかかっていなかった。
「ただい…げっ」
「おかえり、マリア」
玄関を開けた瞬間、翼は予想を多少上回る光景に、思わず言葉を詰まらせた。
(こんなところでずっと待ってたのかよ…)
出迎えた声の主は、ご大層にどこから持ってきたのか玄関先に椅子を置き、そこに長い足を組みながら腰掛け、悠然と本を読んでマリアの帰りを待っていたようだ。
うんざりと、後ろにいるマリアの腕を引き、前へ押しやる。
翼より少し背の高い、銀縁眼鏡の青年が出迎えたのは翼ではなく、マリアであるからだ。
しかし、そのマリアは翼の袖を軽くつかんで離そうとしない。
(やめてくれ~!)
長身の青年がその様子を快く思うはずもないことは、翼でなくても分かるはず。
なんにせよ、この青年のマリアに対する愛情は半端ない。
その様子を見、上品な少し長めの栗色の髪を揺らし、青年は不機嫌そうに一瞬眉を顰めたが、それも分かるか分からないかの一瞬だ。すぐに隙のない完璧な笑顔に戻る。
「寒かった?お腹空いたでしょ?風邪引いたら大変だよ」
「…そんなことよりももっと大変なことがあったけどな…」
翼はため息混じりに思わず小さくつぶやいた。
この青年がマリアがベランダから落ちたなんてことを知ったら、卒倒するに違いない。
翼はさりげなくマリアの手を振り解き、無言で自室へと向かおうと歩を進めた。
この栗色の髪の青年は、翼にとっては天敵だ。あまり関わりたくないのが本心。詮索される前に逃げたい。
無言で天敵の横を通り過ぎようとした時、いままで目線すら合わせずに存在すら無視していた青年の手が翼の腕をつかんだ。
「なんだよっ!」
とっさに振り返り、天敵を見返す。
銀縁眼鏡の奥にある目が、鋭い。
「こんな時間までなにやってたんだ」
(あ~…きた…)
やはり逃げられなかったか、と翼は悔やむ。
この天敵の粘着質は、翼が一番よく知ってる。
「翼」
促すように強く痛いくらいに腕を握られる。
(めんどくせーーーーーーーー!)
心の中で絶叫してみても、状況は変わらない。
翼は意を決して、口を開いた。
「病院に連れてった」
「なに?」
俄かに表情が曇る。
「なんで?マリア、風邪?具合悪いの?」
心配そうにマリアを見るその様子に、翼は一つ、ため息をつく。
マリアは無言のままで何も語らない。
「翼!」
「うるせーな」
腕を振り払って逃げようとするも、また腕を掴まれる。
両親が仕事で忙しく、あまり自宅には戻らないこの家では、大変不本意なことにこの21歳の青年は保護者のようなものだ。
うんざりするが、仕方ない。ここで素直に話したほうが早く開放されるかもしれない。
再び意を決し、大きく深呼吸をすると一息でまくし立てた。
「こいつ、ベランダから落ちた!拾った!病院行った!異常なし!以上!!」
要点をかいつまんで言うと、天敵の顔がみるみるうちに変化していく。
「なんだって!?」
その顔はまるで、自分の弟から『いま自分は人を殺してきました』という告白を聞いたかのような、危機感溢れる反応だった。
(あ~やっぱり無理だったか…)
翼はこの天敵であり兄である青年を、卒倒しなかっただけマシかと、大きなため息をつきながら諦めに似た気持ちで見返した。
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あとで書き直します。