あんたには目の前にいる男の虚像しか見えていない──。

見て呉れと名声と、その隣でにっこり微笑む居心地の良い空間と。要は光の部分だけ。

どんな場所にも、光が射せば影ができる。漆黒の闇ができる。

さっきから馬鹿の一つ覚えみたいに、愛しているだの、私には彼が必要だのと繰り返すが、そんなのはただの押しつけだ。闇雲に気持ちをぶつけて成就するなら誰だって苦労はしない。叶わぬ想いとやらに傷ついて、オフィーリアか、若しくはジュリエットか、悲劇のヒロインを演じるのは容易いからな。

だけどな。あんたは解ってない。

ぶつけられた側の方が何倍も、深手を負っているということを。

役が憑依するように、傷ついた者の声があんたには聴こえないか？　胸が痛むことはないのか？

今のあんたは、まるで浅瀬で藻掻く魚だ。パクパクと空気を求め、ジタバタと水の無い方へ跳ね回り──

「随分な物言いね」

漸く、私は口を開いた。

両の瞳が正対する相手を睨み返す。睫毛が震えているのが分かる。凍りついたように棒立ちになった脚を床から無理矢理引き剝がした。

「貴方こそ、勝手に私の心を見透かしたようなことを言わないで」

暗闇で目を開けた。見たくもない夢。額に汗が滲んでいる。

スザナ・マーロウは、ベッドの中で無意識に拳を握り締めた。こんな力がまだ残っていたのかと思うほど。

あの無礼な人間は誰だったかしら……。顔も名前も思い出せない。そもそも、男だったかしら？　女……だったかしら？

言葉だけが刃やいばの如く胸を抉えぐる。もう何年も前のことなのに。

悔しいけれど、半分は正解だったと認めよう。彼の光は私ではない。疾とうの昔に分かっていた。

彼女は彼を離さなかった。或いは、彼が彼女を離さなかったのか。どっちでもいい……、今となっては。

あの頃は自由だった。輝かしい未来があると信じていた。翼は幾重にも重なり、遠い空まで柔らかく羽搏いた。

固執していたのは心。愛情と履き違えていた執着。

舵の壊れた難破船。

傾いた船体。折れたマスト。いつ波に呑まれてもおかしくない。ぎりぎりのところで歩み寄り、譲歩して、一年また一年と歳を重ねてきた。彼も、私も。

彼は、いつも遠くを見ていた。光の先にある見えない星を。

結局、最後まで、彼は虚像だったのかもしれない。だけど、私にとっては実像だった。少なくとも私の目にはそう映った。

だって、彼は、一流の役者だもの。

振り返ってみれば……。

振り返るには早過ぎる私の人生。

幸せだった、と自信をもって言えるだろうか。

幸せだった？　と恐れずに問えるだろうか……？　最後の翼が捥がれる前に。

祈りが呪いに変わる前に。

せめて最期に、

告げることができるだろうか。

想い出が走馬灯のように瞼に浮かぶ。

いいえ、告げなければ。

ただ一言。

ありがとう──と。

彼に。

朽ちた錨の鎖が切れ、ゆっくりと船が昇っていく。

波は凪いでいる。

やがて一筋の光が船を捉え、影を作った。

本物や偽物だとかどちらでも実感だけが何かを変える

それならば、僕は偽物でいてみせる君が欲するENDの為に

（「太陽帆船」中村森）