ヒーリングスペース カムイ http://www.kamui2007.jp のブログ

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バッチフラワーレメディのお知らせを中心に、その他、その時々の思いをつづっていきたいと思います。

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2016年6月21日(火)のバッチ勉強会は、レメディ考察の回で、カテゴリー「内心が不確かな人に」と「人や周囲に敏感過ぎて影響されやすい」に分類されるレメディ、合計10種についてでした。

カテゴリー「内心が不確かな人に」には、セラトー、スクレランサス、ゲンチアナ、ゴース、ホーンビーム、ワイルドオート、の6種のレメディが分類されています。

いったいどのように、内心が不確かなのでしょうか?

レメディの意味を考えるとき、なぜこのカテゴリーなのか?をも考えてみると、レメディの質やレメディが伝えようとしていることに近づけるように思います。

「内心の不確かさ」に関わるレメディを見ていると、他のカテゴリーでもそうかもしれませんが特にこのカテゴリーでは、魂の声が聞こえにくくなっているように思います。

ゆえに起こる「不確かさ」。

自分の意思に確信が持てない(=魂の声が聞こえない)ゆえに、他人の意見を聞いて回るセラトー。

自分の進むべき、あるいは進みたい道が分からない(=魂の声が聞こえない)ゆえに、方向性に迷って苦しんだり、やってはみたものの達成感を得られなかったりするワイルドオート。

魂は決して希望を捨てないのだが、その魂の声が聞こえにくくなっているから、容易に落胆してしまうゲンチアナ。

どんな状況でも、生きていられるということは、その人が肉体的に生きるのが許されているということで、それは魂が希望を捨てていないということなのだが、その声が聞こえないがために、希望を持つことすら信じなくなってしまっているゴース。

魂の不変と普遍さ、それは安定感をもたらすものだが、その声が聞こえにくくなっていると、軸を失ったと同じように安定さを失い、結果、振れ動いてしまうのではないか、と思われるスクレランサス。

私たちの「魂」は達成できる仕事しか私たちに与えはしない、のだが、魂とのつながりを意識しないで、人格(肉体的、物質的存在)にのみに意識が向いているから、目の前のことをやり通せるとはとても思えない感覚にとらわれるのではないか、と思われるホーンビーム。

という部分で、魂の声が聞こえにくくなっていることが、表面に出てきているように思えました。


さて、カテゴリー「人や周囲に敏感過ぎて影響されやすい」に移ります。
ここに分類されているレメディは、アグリモニー、セントーリー、ウォルナット、ホリー、の4種です。

この4種は、う~ん、確かに、まさしく、「人や周囲」に「敏感過ぎて」、「影響されやすく」、苦しい思いをしますよね。。。

アグリモニーとセントーリーは、大雑把な言い方をすると、基本的にどちらも「平和主義者」で「とても良い人」ですよね。

でも、無理しているんですよね。。。

アグリモニーさんは、大いに気がかりなことがあろうとも、傷つくことがあったとしても、周りの空気をこわさないように、陽気に快活に、時に冗談に変換してみたり、、、
そんな心の中に他人は気が付かない。
もっと悪いのは、そうやっているうちに、自分自身すら真の問題を見ようとしなくなること。

「アグリモニーさん、あなたの明るさとユーモア、溌剌とした輝き、今は無理をした仮面であっても、本来の自然体でもきっとそうであれる素質があるからこそできることなんだと思います。だから、はやく、気が付いて、楽になって、無理のない自然体での明るさで輝いてほしいな。。。」


セントーリーさんって、絶対この人、悪いことしてませんよね!
「良きこと」しかしてないもん!
でも実は、宇宙はそれだけで良しとはしないのです。

自分を大切にしていますか?
他人にしてあげているのと同じように自分にも優しくしてあげてますか?
自分を守ってあげてますか?
自分を許してあげてますか?

宇宙はもっと厳しいことも言う。

あなたが、「ノー」と言わなかったから、相手は自分の間違いに気が付くことができずに、成長できずにいるかもしれない、と。

あなたが相手の気持ちを先読みして配慮したつもりでも、元々気付ける感覚を持っていない相手にとっては、感謝の対象にはならないどころか、当然事として間違った理解をして、間違った常識を身に付け、成長できないかもしれない、と。

でも、もちろん宇宙はフォローする。

たとえそうでも、それはあなたのせいではなく、どんなことがあろうとも、すべては自分の責任だから、相手が成長できないのはあなたのせいではない。

しかし、あなたが「善行」と思ってしたことが、本当に全てが、真に他人を救うことになっているのか、というのは、見直してみる価値はあるよ、と。


さて、ウォルナットさんとホリーさん、大雑把に言えば、どちらも、あ~影響受け過ぎ!

ウォルナットさん、
外部の意見、出来事、に、ガガ~~~ンと一撃受けて、グラグラグラグラ、、、、
或いは、ざわざわざわ~っと心に引っかかり、フラフラと思いが揺らぐ、、、
ウォルナット飲んで、「外部の影響受け過ぎ」から脱出しましょう!

ホリーさん、
他の人の言動に敏感過ぎて、つまり過敏に反応してしまうからこそ、ムカっとなったり、くっそぉ~~~!となったり、いいなぁ~うらやましい~~と思ったり、絶対仕返ししてやる!とか、絶対何か企んでいる、と思ったり、と日々穏やかならぬ心中に悩まされるわけなんですね。これって、ホント自分が疲れるし、何よりその激しい感情は自分自身を傷つけています。こういう時、特に急激に起きた激しい感情にはホリーを飲むと、びっくりするくらいス~っと楽になりますよ!経験済み・保証付き!!!


ではでは、今回はここで終わりにします。


次回は、2016年7月26日(火)、9:30~読書会、今年の最終回です。
ご一緒できる方、楽しみにしております。

※この記事は、「ヒーリングスペース カムイ」のホームページと同時掲載のものです。
2016年5月24日の勉強会は、読書会の回で、「汝自身を癒せ」第5章と第6章でした。

昨年までの読書会では、1回に1章ずつ読み進めていたのですが、今年はレメディ考察の回と読書会の回とを交互に構成して、レメディ全種と「汝自身を癒せ」全章を消化すべく計画のもと、読書会では毎回2章ずつ読み進める形をとっています。

第1章と第2章の組み合わせ、第3章と第4章の組み合わせ、のときは、違和感なく、どちらかと言うとかえって2章続けて読む方が各章の流れとつながりがしっくりくる感もあったくらいですが、今回の第5章と第6章は、続けて読むと、それぞれが独立した深いテーマで展開されていることを強く感じ、分けて考察したい気分になりました。
些細な事ですが、意外な発見でした。

第5章は、病気の真の原因ともいえる「真の個性の欠如」に大きな影響を及ぼす背景について解説すべく、「親と子、学校教師と生徒との正しい関係」について説かれています。

第6章は、病気の本質を理解するがゆえに求められる真の医療の世界、また医学の専門家が認識し成長し実践すべきこと、について説かれています。

どちらのテーマも、それぞれに話題や思いが尽きることなく、時間が足りないくらいで、来年はこの二つの章はそれぞれ単独で扱うことを検討しようと思いました。

さて、第5章について、、、

病気の真の原因ともいえる「真の個性の欠如」とは、バッチ博士の言葉では「人格への干渉を許し、その干渉によって『ハイアーセルフ』の命令に従うのが妨げられる状態」と説明されていますが、それは、今までの章に繰り返し出てきた表現に置き換えれば「人格と魂の不調和」と言え、それは「魂の目指す道を歩んでいない状態」を指しています。

そして「この状態はしばしば幼児期から始まる」ということに大きく関与する親と子の関係、教師と生徒の関係、を考えるこの章でも基本的に訴えていることは、もちろん第4章までと変わることはありません。
それは、「人は誰もが自分の魂の命令にだけ従い、決して他の人格の支配を許してはならない。」ということであり、それは同時に「人は誰もが、決して他の人格の自然な進化(自分の魂の声に従う成長)に干渉してはならない。」ということでもあります。

そしてこの状態こそ、真の自由と言えるのではないでしょうか?

そして、真に自由に生きるからこそ、自覚が芽生え、自己責任も自ずと育つのではないでしょうか?

そして、生きていること、を実感し、味わうことが出来るのではないでしょうか?


逆に、この自由を認めないのが「支配」。

「支配する」ことはもちろんですが、「支配を受け入れる」こともまた、ユニティに反する行動と言え、「支配しようとする者の成長のためにも、支配を静かに優しく拒むべし」と、読めましたが、みなさんいかがでしょうか?

この「支配」ですが、支配というと、何かすごく強烈なイメージを持ってしまうかもしれませんが、意外に何気ないところにも、決して悪意のないところにも、「支配」は潜んでいます。
実はこのことに気付くことが難しいのかもしれません。

親が子のために、教師が生徒のために、との思いからでの言動であっても、決して支配しようとか思い通りにしようなどというつもりは無かったとしても、多大な影響力を持っている立場の人間の言動は、時にほぼ強制と変わらないということへの認識と配慮が非常に薄いと感じています。

だから、気がつかないのでしょうが、現実には支配的な構図なのに、支配する側も支配を受けている側も、疑問を持たずにいる家庭や教育現場を実際に目にします。

それともうひとつ、気づきにくいことがあります。
自分の支配欲です。

「支配=バイン(Vine)」というレメディの選び方は正しくはありませんが、代表的な例として、バインだとしましょう。

誰でも、バッチを始めて間もない時は、38種のレメディの中には自分にあまり関係なさそうに感じるレメディがいくつかあるように思うものです。

しかし、確信を持って言えますが、全ての人が、全てのレメディの要素を持っています。

バッチを続けていると、「関係ない、必要なさそう」と思っていたレメディを飲む日が必ず来ます。

全ての人が、38種のレメディに表現される状態になる可能性をもっているのです。

つまり、全ての人が、例えばVine、を、必要とするような状態になる可能性はあるのです。

しかし、その時、「自分が支配しようとしている」と意識している人は少ないです。

本人は、支配しようという悩みを持っているのではなく、相手の愚かさに嘆いていたり、理想を求めていたり、正義を通そうとしていたり、愛情が伝わらないことに憤っていたり、また、無意識下に他者を動かすことの快感があったり、と、様々な背景や意識があって、結果的に、支配欲に動かされている、支配欲に支配されている、というケースを見受けます。
(補足:上記の例でいうと、行動はVineでも、実際のバッチ選び的にはVine以外も必要だったり、場合によっては、Vine以外だけで良かったりします。)

「ほんの少しでも支配したいという欲望がないかどうか、親となる最初にチェックするべきです。私たちは、強欲さの奴隷になりさがって、他人を自分の持ち物のように動かしたいという願望に駆り立てられることを拒否しなければなりません。」と、バッチ博士は述べています。

まさしくそうだと思うだけではなく、これは、親や教師に限らず、全ての人が、全ての生き物に対して、このようにあるべきだと、強く思い、切に願って止みません。

さてさて、今回も長くなってしまい、第6章に移らねば、、、

第6章も思いは尽きませんが、ここはひとつ、一気に短くまとめるべく、第6章を代弁するつもりで願いを書きます!


医療現場が、部品を扱うだけの工場に陥らず、
生き物には、生き方があって生きている、ということに敬意を払い、
生きる意味を共に考え、
生き方にガイダンスを与え、
幸せに導けるような、
そんな医療の世界になってほしい。。。

では、また、次回!

※この記事は、「ヒーリングスペース カムイ」のホームページと同時掲載のものです。
2016年4月19日(火)の勉強会は、レメディ考察の回で、カテゴリー「不安と恐れ」と「他人の幸せを気にしすぎる」に分類される合計10種類のレメディについてでした。

「不安と恐れ」(または「不安と恐れをもつ人に」)分類されるレメディは、ロックローズ、ミムラス、チェリープラム、アスペン、レッドチェストナット、の5つです。

このカテゴリーは、レメディの質とカテゴリー名が比較的結びつきやすいですね。

それぞれのレメディを「恐れ」と結びつけて短い言葉で言えば、ロックローズは極度の恐れ、ミムラスは理由のある恐れ、チェリープラムは理性を失う恐れ、アスペンは理由を説明できない恐れ、レッドチェストナットは他人の身に起こる良くないことへの恐れ、というように、「恐れ」と関わる表現ができる質の部分を持っています。
もちろん、各レメディはそれぞれに、こんな一言では説明しきれない個性もあります。

さて、今回は、なるべくバッチ博士の哲学と関わるようにお話してみたいと思い、「汝自身を癒せ」の文章からいろいろ引き出してみるよう心掛けてみました。

第7章の後半あたりに、「この時代には、病気に対する恐怖心がどんどん大きくなって、人を害する大きな力になってしまいました。なぜなら、恐怖心は、私たちが怖れおののいているものに扉を開き、それが入ってきやすくするからです。そういう恐怖心は、実際利己的です。というのは、私たちが他の人々の幸せに夢中になって没頭しているときには、自分個人の病気を気にする暇はないからです。」という部分があります。

これは、私自身、ミムラスへの大きな気づきと助けになりました。

バッチ博士の言葉で、ミムラスは「世の中で起きること、病気、痛み、事故、貧困、暗闇、孤独、不幸などに対する恐れのためのレメディです。日常生活の中で感じる恐れです。」と書かれています。
これらはすべて、先述の「そういう恐怖心は、実際利己的です」に入りますよね!
自分自身に降りかかる災いに対しての恐れ、ですもんね!
そうか、自分の心配しているんだ!と気づいたら、なんだか、とってもちっちゃなことに思えてきて、急に軽~くなれました。
あぁ~私はただ自分のこと心配してただけなんだぁ~、なあ~んだ、なんか、おっかしぃ~~~って、なんだか滑稽で可笑しくなって、と同時に、恐れもなくなりました。

そして思いました。
ああそうか、ミムラスの意味ってそういうことか。
利己的、という点で、ユニティに反する行動なわけだ、と。

では、他人のことを心配するレッドチェストナットはどうでしょうか?
自分の心配ではないけれど、、、

これに関しては、「汝自身を癒せ」第4章の後ろの方にある部分「私たちは、人に希望を持たせ、そしてできることなら、その人が前に進めるように、知識や現世的な機会を与えて助けなければなりません。私たちが険しく困難な人生の山道を登るとき、誰かに助けてほしいと思うのとまったく同じように、私たちも、自分より弱く若い兄弟に対して、いつでも助けの手を差し伸べて、より広い知識からの経験をあたえるようにしましょう。親が子に、教師が人々に、仲間が仲間の人に対する態度はこんな風であるべきです。必要で役立つと思われるかぎり、気にかけ、愛し、守りながら、しかも一瞬といえども、その人格の自然な進化に対しては決して干渉しないのです。」というところを引き合いにしてみました。

みなさんも経験ありませんか?心配され過ぎて、閉口したことが。。。

と書きながら、ああ、そういう思いにさせてしまった、つまり自分がレッドチェストナットになっていることに気が付かず、本当に心配してはいたのだが、かえって相手の心に負担をかけることになってしまったことを思い出し、今になっては申し訳なかったな、と思えることに気づきました。

レッドチェストナットの心配の仕方が間違っているところは、相手に何か力を与えられるような心配の仕方ではなく、かえって不安にさせたり、気持ちをくじくことになったり、楽しみしていることへ水を差すようなことをしたり、場合によっては心配のし過ぎで相手が経験しようとしている機会を奪ったり阻止してしまうことさえ起り得る、という点にあります。

悪気もないし、自分の思い通りに操りたいわけでもなく、本人的には、本気で心配しているのではあるかもしれないけれど、よくよく考えてみれば、それはある意味良くないことが起こる(すでに起きている場合はもっと悪くなる)ことを予想している、ということになります。

心配しているといっても、「こんな悪いことが起こるんじゃないか。もっと悪いことが起こるかもしれない。こんな悪いことが起こりそうだよ。もっと悪いことがおきそうだよ、、、こんな悪いことが、こんな悪いことが、、、」と言っているに過ぎないとしたら、それは何ひとつ相手のためになることはありません。

相手に希望や喜び、あるいは困難な状況を切り抜けられるような力や意欲、時には知恵や導き、または必要に応じて実質的な助力を与えられるのでなければ、それは、バッチ博士が言う「仲間が仲間に対するあるべき態度」とは言えないでしょう。

そういう意味で、これもまた、ユニティに反する行動と言え、あるべき行為ではないと言えるのではないでしょうか。

それに、「心配」は、はたして、「愛」と言えるのでしょうか?
これに関しては、この日のもう一つのカテゴリー「他人の幸せを気にしすぎる」のところで合わせて書くこととします。

さて、「不安と恐れ」のカテゴリー全体に対してバッチ博士の哲学から言えることがあります。

そもそも、不安や恐れは、私たち自身である「神性」を理解すれば、存在し得ないことになるということです。
このことを、しっかりと、心に留めておきましょう。

長くなってしまいましたので、この日のもう一つのカテゴリー「他人の幸せを気にしすぎる」に移ります。

このカテゴリーには、チコリー、バーべイン、バイン、ビーチ、ロックウォーター、の5種のレメディが分類されています。

チコリーは自己中心的な愛し方が問題になるし、バーべインは熱狂的で押し付けがましかったり、バインは強制的だったり支配的だったり、ビーチは他人に批判的で、ロックウォーターはひたすら自己に厳しく、これらの一体どこが「他人の幸せを気にしすぎる」なんだ?と、いう思いにかられかねないところを、では、どのように他人の幸せを気にしているんだろう、という視点で見てみました。

その視点で拾ってみると、
チコリーは、自分の愛する者たちの幸せを願うがゆえ、口出しし過ぎたり世話のやきすぎに至り、
バーべインの根本は自分が信じる正義で他人を幸せに導きたいところにあり、
バインは、自信ある自分の判断に従うことは相手のためと確信しているところにあり、
ビーチは、他人がもっと良く、もっと美しい生き方ができるべきだと感じるからであり、
ロックウォーターは、自分に高い基準を課し、頑なまでに目指しますが、それは、他人が向上するお手本になりたい、自分の実践を通して他者を向上に導けるようになりたい、という心理があるからです。

実は、他人の幸せを気にしてるんですね!
でも、バランスを崩して≪し過ぎる≫まで行ってしまうと、結果的には他人のためにも自分のためにもならない行為に及んでしまうんですね。

バッチ博士の哲学で言う「愛」を、ダライ・ラマさんの言葉を引用させてもらって考察してみました。

ダライ・ラマさんが、愛と慈悲について問われた時に答えられた言葉で、「愛とは、相手の幸せを願うもの。慈悲とは、相手の苦しみがなくなることを願うもの。」というものがあります。

この表現、シンプルですが、真の「愛」の姿を教えてくれていると思いました。

「愛」は相手の幸せを願うもの、、、
願う、は、押し付けたり、支配したりはしないですよね。

愛とは、何の重圧も与えず、ただただ暖かく存在するもの、相手は救われる感覚のみに満たされるもの、そう考えると、いくら「相手の幸せのために」あるいは「心配しているからこそ」といっても、支配や強制、批判などの行為は、愛とは言えないですよね。
愛を盾に正論化できるものではないはずです。愛に反する、ユニティに反する行為と理解されますね。

そして、先にも投げかけた「そもそも心配は愛なのか?」についても、「相手に良くないことが起こる」ことを予想する「だけ」の行為なら、「愛とは、相手の幸せを願うもの」からは遠いものと言えます。真に「相手の幸せを願う」のであれば、「無事を祈る」「相手の判断なり能力を信じる」「適切な、必要とされる助力や助言を与える(もちろん、過干渉や過剰介入ではなくて)」などに置き換わっていくのではないでしょうか。

長くなってしまいました。
今回はここで締めにします。

さて、次回は読書会の回で、「汝自身を癒せ」第5章と第6章です。

どの章も重要なのですが、特に第5章は、真に自由に生きること、真に個性を理解し尊重すること、それらを阻む潜在する大きな障害、について強く訴えている章で、より多くの人に真摯に受け止め考える機会にしてもらいたいと思う章です。

では、ぜひ、共に学ぶひとときをご一緒できますように!

※この記事は、「ヒーリングスペース カムイ」のホームページと同時掲載のものです。