アマプラで「劇場版からかい上手の高木さん」を改めて鑑賞して。
映画館で観たのを含めるとこれで5回目になる。話の内容はもう知っているので、いろいろ別のことを考えながら鑑賞していた。
賛否両論あるシーンがあって、それは最後の方の「高木さんの涙とそれに対する西片のセリフ」である。これに対して私が思うことを改めて書き記したい。
違和感を覚える大きな要因は、連載やテレビアニメでは見られなかった高木さんの「涙」と、「やけに積極的な西片」である。
ただ、もしエンディング終了後の「元高木さん」のシーンが既定路線だったとしたら、件のシーンはむしろ必要なものだっただろう。
この映画が「原作準拠のオムニバス形式」だったとしたら、わざわざ映画にする意味はなく、テレビアニメ4期をやればそれで十分だ。にもかかわらずわざわざ映画にしたのは、単純に興行収入が見込める以上の何かがあったのだろう。
原作では一つ一つの話の季節はランダムだが、アニメでは順々に時が進行していて、3期の終わりは「2年生の末」まで進んだ。となればその続きとして映画を位置付ける場合、自ずから高木さんたちは「3年生」となる。ということはどうしても「卒業」「中学最後」「変化」ということを嫌でも意識せざるを得ない。
脚本を書くうえで重要なのは
1.アンチ 2.カセ 3.葛藤
と言われる。
最後がいい意味での「変化」で終わる必要があるのなら、冒頭はその対極にある「日常」から始まらなければならない(これがアンチ)。その上で卒業まで時間がないこと(これがカセ)、そこからくる「変わりたくないが変わらなければならない」という焦り(これが葛藤)を描く必要がある。
高木さんは度々自分自身でその葛藤を感じているシーンがあったが、西片は例えば浜口に言われるなどして、他人から少しずつその葛藤に気付かされている。
そんな中ハナが別の家の子になってしまったことで、本当は寂しいしちょっとした悔しさもあるであろう高木さんが、あえてハナの幸せを願う発言をしたこと、そして今まで見せたことのない涙を見せたことにより、西片の心も大きく動いてあの行動に至ったのだろう。
だから結論から逆算すると、あのシナリオは大変自然な流れであったと私は思う。もちろん同時に、連載やそれに準拠したアニメとは別物に近いということも感じる。だがそれは決して高木さんや西片のキャラクターを無視したものではなく、最大限に生かしてストーリー性のあるものを作った結果ああなったということだろう。
ときどき私がツイートしているように、高木さんの原作は「キラキラした思い出を丁寧に額縁に入れて飾ったもの」だと思っている。
となればもし今後映像化があるとすれば、もはや「元高木さん」しかないだろう。その中の1話として原作準拠の話を持ってくることになるだろう。というか元高木さんそのものがそうなっている。高橋李依さんも梶裕貴さんも、大人になった2人の演技に試行錯誤をしていた部分が見られたし、元高木さんの映像化は決して夢物語ではないであろうと思う。