哲學は實在的なる世界の沒落と共に始まる、それがそれの諸抽象性をもつて、灰色を灰色で描きながら、現はれるとき、青年の、生命性の新鮮さは既に過ぎ去つてゐる。」彼はまた記してゐる、「哲學がその灰色を灰色で描くとき、生の姿は老人となつてゐる、そして灰色を灰色でもつてしてはその姿は自己を若返らしめるのでなく、却てただ認識せしめるのである。ミネルの梟は侵ひ來る薄暮と共に初めてその飛翔を始める*[#「*」は行右小書き]。」哲學的認識は一定の時代が成熟し終つて、その外的なる騷擾の全體が過ぎ去つてしまつた後、これを囘顧し觀照する立場にある者にとつてのみ可能である。まことにヘーゲルは斯くの如き立場にある者であつた。彼はロマンティク時代の結實期に於て哲學した。ここに私の引用した美しい言葉はなによりも觀想的なる彼の哲學の本質を語つてゐる。彼の體系は觀想的に構造づけられたロマンティクの基礎經驗の最も雄大なる表現である。このやうにして、ヘーゲルの哲學が彼みづからによつて過去の歴史に於ける哲學的發展の綜合として、結果として、終結として理解されたのは當然であらう。ヘーゲルの偉大なる先驅者はアリストテレスである。ところでアリストテレスはまた、それ自身觀想を本質としたところのギリシア的世界の、外的には沒落の、思想的には完成の、時期に立つてゐた。ヘーゲルと類似した彼の立場は彼をしてまたヘーゲルと類似した哲學を構成せしめたと思はれる。如何にアリストテレスが彼自身の時代を考へたかと尋ねるとき、我々は彼が政治的及び美的領域にあつては發展は本質に於て終結してゐると見做したのを疑ふことが出來ない。