初めて大洗に来たのは、20年以上前になる。

まだ次男が産まれていなかったので、長男は2歳になる前の初冬だろう。

泳ぎが不得手なので、夏に海に来ることはない。

「アンコウ鍋」なるものを初めて食べるのに大洗を訪れたのだと思う。

砂浜を厚着した長男が、海風が頬に吹き付けるのを嫌がることもなく笑顔で歩く姿を写真で記憶している。

海の近くの民宿に家族3人で宿泊し、アンコウ鍋の夕食が終わりかけたころ、ゼラチンの部分を残しているのを宿の方がこれがアンコウ鍋では美味しいのだと教えてもらった。

それ以来、子供が増えていく年々、冬になると大洗を訪れてきた。

水族館に行ったり、大きな公園で遊んだり、夏の奥日光とともに、冬の大洗は家族の大きなイベントだった。

 

今年は、三男と二人、定宿に泊まっている。

家族5人で旅行していたころは今思えば、とても幸せだった。

その時は面倒なことがあったり、思い通りにならないこともあったのだろうが、記憶に残っているのはいいことだけだ。

過去には戻ることはできず、あるのは記憶だけだ。

記憶に対する感情は、そのときの感覚とは違うだろうが。

 

来週、3回目の妻の命日を迎える。

強烈に思い出すのは、辛い日々のことばかりだ。

ベッドに横たわり、だんだんと弱々しくなっていくことにどうしよもできない悲しみに暮れていた。

ああすればよかった、といった後悔がたくさんある。

 

最近、物忘れが多くなった。

毎日、帰宅してからスーパーに出かけるが、買おうと思っていたモノのうちいくつかは帰って気が付くことが多い。

昔の記憶は思い出すたびに新しく思い出したそのときの感情とともに刻まれていく。

決して忘れることのない記憶ではあるが、振り返らずに過ごしたほうがよいだろう。

思い出そうと思えば、いつでも思い出せるのだから。

朝晩、手を合わせていろいろなことを話すだけでいい。

 

最近、YouTubeに養老孟司さんのお話がたくさんアップされていてよく見る。

「死は二人称」と言われたことにはとても共感した。

没後の法要は、三人称のためのもの、命日だからといって何か特別なことはするつもりはない。

花鳥風月を感じながら過ごしていきたい。