「国宝」小説にあって映画にない2点について 

 

言われ尽くされたであろう事だが、この映画の成功は吉沢亮と横浜流星の2人の役者魂である。いち役者がここまで歌舞伎を踊れるものなのか。いやそんなはずもなく、その努力たるや想像に難くない。が、宣伝などでそれを見せていないのも、観る側としては虚をつかれた感があって良かったのかもしれない。

 

原作である小説も売れているらしい。確かに読み応えがあって面白かった。語り部口調の文章が脳に映画のような映像を呼び起こさせてくれる。

もちろん映画は小説の内容を端折っているが、それでも小説の中の空気感を十分味わう事は出来ると思う。

小説との違いは2点。原爆に触れているか触れていないか。と、徳次。

しかしこれを映画に入れてしまうと収拾がつかなくなるのも理解できる。

小説では喜久雄の故郷が長崎である事から、唐突にくっきりと原爆の凄惨さが影を落とす。

喜久雄の実母に後妻であるマツが言う。

「せっかく原爆にも負けずに生き残ったとよ。病菌なんかに負けてどうするね」

また、喜久雄の親父の仇でもあり陰の後見人のような存在でもあった外村は、喜久雄の踊りを見ながら、亡き母の姿を思い出す。

「実母の背中は赤く焼け爛れ、幼い外村がその小さな手で払っても払っても、黒々として蠅がたかります」

徳次は映画では序盤の幼馴染としてだけ出てくるが、小説ではかなり重要なキーパーソンとなっている。喜久雄は徳次が居なければ生きてこられてなかったのではないかと思うほどに。

徳次を主人公としたスピンオフをドラマでもいいので是非作って欲しい。

徳次を演じる役者は誰がいいか、、、なかなか思いつかなかったが、中野太賀。もうそう思うと中野太賀以外ない気がしてきた。キャバクラだかクラブだかで踊りを強要された喜久雄がパトロンを殴ろうとした時、徳次がテーブルを乗り越えて飛んできて、喜久雄の振り上げそうになった拳を止めて言う。「俺がいつでも殺しちゃる。坊ちゃんはそんな汚れ役やらんでええ」このシーンを是非映像で観たい。

中国から帰国した徳次は、芸の魅せられ、芸に取り付かれた喜久雄が芸に身も心も支配された姿を見て、どう思うのだろう。何と声をかけるのだろう。

小説の最後、喜久雄の狂気はとても美しかった。が、映画の喜久雄もとても美しかった。

そういえば、田中民演じる万菊が隠遁生活を送る寂びれた一室で「ここには美しいものが何もないでしょう。妙にほっとするのよ。許された気がして」という言葉が印象的だった。

喜久雄もいつか、芸から、美から解放される時が来るのだろうか。