ノボの生き活きトーク 462号: 1964東京五輪 その6 | 生き活きノボのブログ

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        永遠なれ 1964東京五輪   ~ ある中学生の遠い記憶と想い ~

 

第5想  オリンピック開会式当日

 

 19641010日は土曜日であり、朝早く起きると外はよく晴れていて、典型的な秋の日和である。この日がアジアで初めて開催される東京五輪の開会式であった。この1010日は、次年以降、東京五輪の開始日を記念して“体育の日”として日本国民の祝日となったが、その時は祝日でも何でもなかった。 

 当時の学校は週6日制が一般的であり、ほぼ全ての小中学校では土曜日にも半日の授業をしていた。アジアで初めてのオリンピックの開会式が開かれるのだから、特別に休校にしてほしいものとは、小生以外のどの生徒も願った筈だ。しかし、学校は平常通り開かれ、授業をサボる訳にはいかない。しぶしぶ登校すると、学校ではオリンピックの開会式の話でもちきりだ。先生の話もすぐにオリンピックの話となり、生徒だけでなく先生達もオリンピックで浮き浮きしているのかと思ったことを覚えている。勿論、授業などに身の入る筈がなく、どんな授業があったのか忘れたが、1964東京五輪に関する雑談がほとんどであったのは間違いない。

 授業と清掃を終えて下校したが、この日ばかりはクラブ活動のバレーボールの練習をやらず、一目散に家に帰ったのを覚えている。午後1時前には自宅に帰り着いたが、四畳半の畳部屋にあった白黒テレビにはすでにスイッチが入っていた。自宅は、木造平屋建てで、道路に接した部分は、魚の売り場と調理場になっている。居住空間といえば、四畳半の畳部屋と土間と狭い板張りの食堂だけである。テレビは映っていたものの、親父とお袋は店で仕事をしていて、見ていなかった。小生は味噌汁とご飯で昼食を急いで済ませ、テレビの前に陣取った。その時弟や妹達も一緒にいたと思うが、その様子は全く頭に残っていない。

 テレビに映し出された国立競技場は、超満員であった。祝福の鐘がゴーン・ガーンと響いている。テレビカメラで俯瞰した光景からは、開会式直前のムンムンとした熱気が発散している。多分、実況中継のアナウンサーと解説者は精一杯気の利いたことを言っていたと思うが、何を言われても心地よく聞き取れ、祝福と褒め言葉に満たされていたに違いない。日本中の茶の間という茶の間ではテレビが付けられ、今か今かと開会を待ちわびた顔が並んでいた筈だ。その頃、テレビはようやく各家庭に行き渡り、よその家にテレビを見に行くことはほぼなかった。でも、ようやくカラーテレビの放送が一部の少ない番組で始まったばかりであり、カラーテレビを持っていた家庭などごく一部であり、ほとんどの日本人は14型程度の小さい画面の白黒テレビで観ていた。

 小生の家でも、神戸の大学に通っていた長兄を除いて、家族揃ってテレビの前に集まったと思う。間違いなく、日本中が、固唾をのんで、開会式の始まるのを待った。